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『彼岸過迄』を読む 4351 松本恒三と田口千代子は「交際」していたのか?


「若い女には誰でも優しいものですよ。あなただって満更経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。

→田口要作から見て
①松本恒三は人一倍若い女に優しい男

②田川敬太郎は少しは経験のある男

 彼はやがて真面目な顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻自分の報告が滞りなく済んだ証拠に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後で、こう難問が続発しようとは毫も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競り上って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟だとか、またはただの友達だとか、情婦だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 私は昨日までこの「肉体上の関係があるものと思いますか」という田口要作の言葉を剽軽では片付けられない下品なジョークだと思いこんでいました。しかし例えば『行人』との関係で見た時、ここには二郎の報告を待つ一郎のようなものが現れてはいないでしょうか。というのも、

「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直じゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 千代子は松本恒三をどこかへ連れて行こうとしています。銀座の三越で帯どめを買わせようとしているのか何だか解りません。この目的地はまだ見つかりません。明日分かるかもしれませんが、今日の時点では不明です。しかしここで松本恒三は「今夜は」と言ってしまっていますよね。つまりこうして二人っきりで会うことはなんら特別なことではなく、今後も会い、今夜のように遅くならなければその目的地へ一緒に行くのだということになります。家族で会うのではなく、二人っきりで。そういう交際が続いていたら、親としては「まさかそんなことはあるまい」と信じつつも、傍からどう見えるものか、世間体はどうなのかと少しは気になるものではないでしょうか。
 そう考えると単なる悪ふざけ、遊びとしての探偵が、極めて実際家らしい仕掛けに思えてきます。
 田口要作にしても、千代子が時折見せる家庭以外の空気に触れた大人びた雰囲気に、田川敬太郎よりは敏感に気が付いていた筈です。何しろ田川敬太郎は探偵の役目を放棄して、千代子に見とれていたわけですから。

 やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩く廻転して来た。それが女のいる前で滑るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直に女の前に行って、そこに立ちどまった。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田川敬太郎が松本恒三の黒子を確認するのは宝亭に入ってからのことで、それまで背の高さや黒の中折れくらいしか確認していなかったわけです。しかも「一人は紙で包んだボール箱のようなものを提げて」と、帽子も外套もチェックしていませんね。松本恒三に対しても同じです。「一人は降りると直に女の前に行って、そこに立ちどまった」と千代子中心に見ています。この後の記述なんですが、まだ男を見ません。千代子を見ています。

 敬太郎は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺めていたが、美くしい歯を露き出しに現わして、潤沢の饒かな黒い大きな眼を、上下の睫の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見惚れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中折が乗っているのに気がついた。外套は判切霜降とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸に投げた。その上背は高かった。瘠ぎすでもあった。ただ年齢としの点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 なんですかこれ?
 探偵としては失格ですよね。まぐれ当たりにもほどがあります。千代子がいなければ、時間的にもそうですし、そもそも探偵が成り立ちそうにもありません。

 しかもこんなことを言い出します。

 彼はこのXという男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がYという女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 繰り返しますがこの時点では松本恒三の黒子を確認していないんですよ。それなのに田川敬太郎は自分の都合のいいように「信じ」ています。つまりそれほどまでにYという女に関する自分の好奇心が勝っていた、何千人が行き来する大都会にあって、田川敬太郎にとっても田口千代子はひときわ目を引く魅力的な女性だったということなのでしょう。

 そんな娘を持つ親の心配に対して、松本恒三はその意を汲んでか「高等淫売」という言葉を投げ返します。田口の悪戯を牽制とみれば、これは反論ですね。

 それで今日まで千代子にどんな候補者があったのか、間接にさえほとんどその噂を耳にしなかった。ただ前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会って、気を悪くしたという高木だけは、市蔵からも千代子からも名前を教えられて覚えていた。僕は突然ながら田口にその男はどうなったかと尋ねた。田口は愛嬌らしく笑って、高木は始めから候補者として打って出たのではないと告げた。けれども相当の身分と教育があって独身の男なら、誰でも候補者になり得る権利は有っているのだから、候補者でないとはけっして断言できないとも告げた。この曖昧な男の事を僕はなお委しく聞いて見て、彼が今上海にいる事を確かめた。上海にいるけれどもいつ帰るか分らないという事も確かめた。彼と千代子との間柄はその後何らの発展も見ないが、信書の往復はいまだに絶えない、そうしてその信書はきっと父母が眼を通した上で本人の手に落つるという条件つきの往復であるという事まで確めた。僕は一も二もなく、千代子には其男が好いじゃないかと云った。田口はまだどこかに慾があるのか、または別に考えを有っているのか、そうするつもりだとは明言しなかった。高木のいかなる人物かをまるで解しない僕が、それ以上勧める権利もないから、僕はついそのままにして引き取った。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 よくよく読めば、確かに田口要作は千代子を監視しています。ただ美しいだけではなく、田川敬太郎に本来の任務を忘れさせるほどの輝きを放つ娘を持つ親としては探偵くらい当然のことかもしれません。この千代子と松本恒三に肉体上の関係はあるのでしょうか。
 なさそうだ、とまでは言えます。
 しかし「交際」はありますね。「二人きりの交際」です。そして宵子の死の下りをみれば家族ぐるみの交際もあります。まあ親戚としては仲が良い方でしょう。叔父さんと姪は普通二人っきりで食事などしません。

 


[余談]

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』に、「パッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイスの区別さえも分らないとは」と英文法の話が出て來る。「パッシヴ・ヴォイスの組み立てや、サブジャンクティヴ・ムードの応用法」なども出て來るのであくまでも英文法の話だ。その前に英語学習の基本的な姿勢として、

「日本の人、みな文法やトランスレーションを考えます。けれどもそれは一番悪い。あなた英語を習います時、決して決して頭の中で文法を考えてはいけません、トランスレートしてはいけません。英語のままで何度も何度も読んで見ること、それが一等よろしいです。ナオミさんは大変発音が美しい。そしてリーディングが上手ですから、今にきっと巧くなります」

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 などと云われているのでやりにくい。しかしパッシヴ・ヴォイスとアクティヴ・ヴォイス、サブジャンクティヴ・ムードと言われると谷崎潤一郎の描く捩じれたマゾヒズムの世界の成り立ちや、「物語る」という行為の根本的な意味について考えさせられないわけにはいかない。
 谷崎潤一郎の描く捩じれたマゾヒズムの世界の成り立ちに関してはあまり買いかぶり過ぎてもいけない。いけないとして、やはりそこに「受動態・中動態・能動態」あるいは「中動受動態」といった概念を持ち込むことで整理が付きそうな感じがする。
 例えば私はナオミを全裸にするのは男性マゾヒストとして失格だと書いた。しかし河合譲治の恥は自分妻の裸が晒しものにされることによって起こるもの、拡大された自己のパブリックなフラッシュであるとしたら、デツクをフラツシュせずとも、それでもマゾヒストの条件を満たすと言えるかもしれない。常に絶対の我と彼の関係があるわけではなく、ことに「夫婦」という関係性にあって外部と向き合う中ではそこには「受動態・中動態・能動態」とトランスレートしてはいけないものがあるのではなかろうか。

 ある意味それは確固たる現実などでもない。ナオミは浮気をした。それが現実ではないのだ。それは過去だ。ナオミと河合譲治の関係はサブジャンクティヴ・ムードの中にある。


  本を買う人≒年寄りで馬鹿?



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