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その一人があらわれる日の為に 本当の文学の話をしようじゃないか⑫



芥川の遺品 古織部角鉢

 芥川はともかく三島由紀夫もインターネットを知らずに死んだ。それはとても想像できない世界だったのだ。例えば『AKIRA』にもスマホは出てこない。インターネットのない時代に、何故か中国の脅威とテレパシー連携による集合知の可能性について書いたSF作家がいた。

あたかもこの頃、中華人民共和国は、文字通り何百万、何千万の天才をひそかに創り出していた―テレパシーの相性のいい、同傾向の専門家に、二人組またはそれ以上の小グループを作らせ、一個の頭脳として思考することを教え込んだのである。そして、こうしたつぎはぎの頭脳は、たとえばサー・アイザック・ニュートンや、ウィリアム・シェイクスピアのそれに匹敵するものになったのだ。

『スラップスティク』

 ここには確かにうっすらとだがネットワークの発想がある。そして数年前に現実となった中国の脅威をいち早く言い当てていたことにも驚く。

 あるいは今当たり前に存在するコンピューターネットワーク、ウエブサイト、検索エンジンという新しい世界の存在に改めて驚く。この新しい仕組みの中でSNSという場が生まれ、誰でもが瞬時に自分がどのくらい馬鹿なのかということを世界に発信できるようになった。

 今近代文学は「青空文庫」や「国立国会図書館デジタルライブラリー」といった少しはまともなウエブサイトの中にのみあるのではなく、いささか真面ではないno+eの中にもあるのだ、とまずは考えてみることができる。そこには「読書メータ」や「ブクログ」以下の「あなたの感想」があふれてもいるが、すくなくとも近代文学1.0よりは少しはまともなことが書かれた記事もなくはない。

 オオストラリアには猿はいない。

 そんな指摘が何らオーソリティーに依存することなく、ただ当たり前の事実として公開される。その言葉は無限に低い確率だがいつか「あれ、オオストラリアには猿はいないの?」と誰かに直接届くかもしれない。
 近代文学2.0とはその無限に低い確率でインターネットに揺蕩うものである。

 おそらくこうした風景は間もなく見られなくなるだろう。

 人々はスマホ画面で近代文学と接することになる。老人もフォントを気にせず本が読めるようになる。そしてもうすでに多くの近代文学が聞き流されている。それは決して望ましいことではないが、どう読んだらいいのか解らないもの、そして音では意味が解らないものは淘汰されていく。
 谷崎や三島は危険である。

 しかし最も危険なのは近代文学1.0の亡霊が、無数のデッドコピーとしてインターネットの世界をも埋め尽くすことである。要するに「月が綺麗ですね」攻撃は防ぎようがない。ネットワークはアニメのキャラクターによって歴史的な名称が隠されてしまう世界でもある。圧倒的な量のデッドコピーは真実を見えなくする。

 それでもこのインターネットという世界と向き合うためには何が必要なのだろうか。 

 現時点において、その手立ては見つかってはいない。なぜなら五千人以上が辿り着いた『こころ』に関する最も基本的な誤読、先生同性愛説でさえ、まだ理解した人はたった数十人しかいないのだ。

 美禰子を描いた絵のタイトルが「森の女」では駄目だという理由が理解できた人はまだ一人も現れない。少なくとも三四郎にとって美禰子は「森の女」ではなく「池の女」だから……こんなシンプルな話でさえ、282人の人々にはちんぷんかんぷんなのだ。しかし、これ、本当にそんなに難しい話なのかね?

 難しい?

 あ、そう。

 しかしこれはそもそも当たり前の話で、インターネットでnoteの記事に辿り着く人間の大半は、自分の足で本屋に立ち寄る人の半分ほどの知性も持ち合わせてはいないのだ。

 この『卒業論文マニュアル』の執筆者らが標準的なポスドクレベルだとしたら、インターネットでnoteの記事に辿り着く人間の大半は、そこからさらに低いレベルの知性しか持ち合わせていないだろう。

 つまり『卒業論文マニュアル』を批判的に論じている記事を理解する能力がある人とそうでない人がいるのだから、理解できる人が現れるまで待つしかない?

 例えばどういうわけか大岡昇平が「美禰子は銀行員と結婚した」と思い込み、その思い込みが伝染したという事実は、このインターネットの存在を前提にした世界ではもっと深刻に捉えてよいのではないか。

 なんとなくつられてしまうということがあり、おおよそ一流の読み手であってもスコンと読み間違うことがある。

〇女房から離婚を切り出され、ちょっと待ってと自分が家を出ていく
✖女房が離婚を切り出して家を出ていく

 この「自分が家を出ていく」ということがないと旅行が始まらないので、この読み間違えと言うのは普通にあり得ないことの筈。しかしそういうことが現に起きるのだ。


 では東大の総長まで務めた蓮實重彦について批判的に論じた記事を理解できる人間は、インターネットでこのnoteの記事に辿り着くことができるのか?

 その確率は?

 それは地球外生命体と出会うくらいの確率だろうか。

 それはゼロではないが、無限にゼロに近いと言えよう。

 しかしこれがインターネットだ。

 夏目漱石作品でさえ、このインターネットの世界が誕生しなければ誰にも理解されることはなかったのだ。インターネットは本来「つぎはぎの頭脳」として天才の代わりになるべきものであったはずだ。まともなものと繋がりさえすればすべては解決するはずなのだ。

 まともなものはきっとどこかにある。

 この幽かな希望を今日も繋いでおこう。


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