オオストラリアの猿? 芥川龍之介の『猿』をどう読むか④
昨日は語り手が危険な優越感に充ちていて、奈良島を「猿」と呼び、狩ろうとしているというあたりの感覚の斬新さと気味悪さについて書いた。なんだかとても気持ちが悪い。それは自分の中にもそういう恐ろしいものが潜んでいるのではないかという不安があるからであろう。その不安は間違いなくこの若い書き手が操っているものだ。そしてそのような意匠は何度考えても芥川以前には見いだせない……。
いや、そこまでは言い過ぎだろうと思いつつも、やはりこの恐るべき若者たちの原型はなかなか思いつかない。官製の優越感に限れば、その程度のものは『聖書』にでも見つけられそうな気もするが、仲間を猿と見做して狩ることを面白くってたまらないというような恐るべき若者の姿は……やはり見当たらないのである。
あるいは芥川が「仲間を猿と見做して狩ることを面白くってたまらないというような恐るべき若者」を書いていたことすら、殆ど議論されてこなかったのではなかろうか。例えば三島由紀夫の『午後の曳航』に描かれた恐るべき少年たちについて語られる際に、芥川の『猿』が引き合いに出されたことがあるだろうか。
話がもう一つ過去に戻ってしまった。しかしオオストラリアへ寄って猿を貰うだの「外の連中の貰つたり、買つたりした動物が沢山ある」だのまるで軍艦ではないかのようだ。そしてなによりも「猿」が気になる。オオストラリアにはニホンザルはいまい。
オーストラリアは猿のいない国である。
え?
オーストラリアは猿のいない国である。
つまり?
つまり「オオストラリアへ行つた時に、ブリスベインで、砲術長が、誰かから貰つて来た猿」というのははなはだおかしな話なのである。後にこの若い書き手は様々な無茶な設定を放り込んでくる。それは『羅生門』の二階の死体、一度きりのことではない。
そしてこのオオストラリアの猿の大人しいこと。その猿がどんな大きさなのかはわからないが、人間が素手で猿を掴まえることは極めて困難であろう。飼い犬や飼い猫はたやすく飼い主に掴まえられてしまうが、あれは掴まえられたふりをしているだけのことで、本気で逃げた動物はなかなか捕まるものではない。
つまりこのオオストラリアの猿は演技しているのだ。
何のために?
結果的にはこのオオストラリアの猿は「私」に間違った成功体験を与えてしまい、当てにならない自信を与えてしまっていることになる。相手をたかが猿と見下しながら、実はこの恐るべき若者たちは偽物の優越感に酔っていることにはならないだろうか。
つまり彼らが「猿」と見下した奈良島は実は……と続きを書きたいが、おしっこがしたいので今日はここまで。
[余談]
おしっこで思い出したが、ショーン・Kって今何をしているんだろう。
やっていることは「芸」で芥川と変わらないのに。
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