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我死なば我から古し榾火哉 夏目漱石の俳句をどう読むか72


乳兄弟名乗り合たる榾火哉

 このサイトによれば、この句は馬琴の『南総里見八犬伝』にちなんだ句ではないかという論文があるらしい。その論文では犬山道節と犬川荘助の再会の場面をイメージしているようである。しかしこの二人は乳兄弟ではない。犬山道節の乳母は音音、犬川荘助に実母がいた。

 乳兄弟の関係にあるのが、

犬田小文吾の母から乳を貰った犬飼現八

②音音の子、十条力二郎・尺八郎犬山道節

細河政元徳用

 この組み合わせである。犬だからみんな乳兄弟というわけではない。

 犬川荘助が下人として「額蔵」の名前を名乗っていたところ、武士として「犬川荘助義任」と名乗りを改めるというストーリーから「名乗り合たる」という設定には犬川荘助を絡めたいところであるが、これは上手くいかない。

 ここは荒芽山の音音の家で四犬士と合流し、自らも犬士として自覚すると火遁の術を棄てた犬山道節と、すでに討ち死にした十条兄弟の霊魂(実際話としては霊魂が出てくる)の名乗りあいと考えられないだろうか。

 ちなみに解説者は因縁も何も書かないで「ふーん」している。「ふーん」はないだろうと思うが、この人は「解りません。ごめんなさい」が言えないのか。


かくて世を我から古りし紙衣哉

 このようして世の中を自分から古いものにしてしまった紙の衣であることよ?

 この「紙衣」は最初人形に着せる衣のことかと思ったが、次に、

我死なば紙衣を誰に譲るべき

 とあるので実際の紙衣そのものであるかは別として紙衣になぞらえた自分の粗末な着物のことを指しているのであろう。いずれにせよ、まだ二十九歳の漱石が「いつのまにか年取っちゃったな」「死ぬのはそう遠くない日のことだな」とぼんやり考えていて、これらの句は詠まれたのであろう。

我死なば誰を主じに櫻花 

 ではないが、この世に残すものが紙衣のようなものくらいしかないのだなあという、嘆きが出ているような句である。しかしこれは本当に冗談ではなくて、本当に特別な人を除いて、ほとんどの人がこの世には何も残せないものである。子規は確かに何かを残したが子規の周りの俳人たちの句が全部残っているわけではない。

 漱石は残ったが、誰一人その作品を理解しようとしなかった。芥川も谷崎も同じ運命にある。むしろ谷崎作品の方が語彙の問題で早く解らくなるかも知れない。

  しかし「我から古りし」という感覚は、芥川の漢詩

即今空自覚
四十九年非
皓首吟秋霽
蒼天一鶴飛
そくこんむなしくじかくす
しじふきうねんのひ
かうしゆしうせいをぎんず
さうてんいつかくとぶ

[大正六年八月二十一日 菅虎雄宛]

 に近い自責の念を感じる。大正六年ということはまだこの時芥川は二十六歳くらいか。まあそのくらいで一つの振り返りがあるということか。この後どうなるのかということを知っていてさえ、何か声をかけてやりたくなるような句であるし、「お前こそ頑張れと」言われているような句である。

[余談]

 これ、結構需要あるんじゃない?

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