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何となく蜜柑も今や師走かな 夏目漱石の俳句をどう読むか70


 市中は人様々の師走かな

 子規の評点「〇」。とてもざっくりした句で、具体的には何も示していないのだが、そうした具体を放棄してみるという賺しが少しだけ褒められたというところであろうか。

 鰤でも鮭でも何か一つの師走らしさを捉えようとしても、行きかう人々に様々な師走があり、焦点が絞れないという感じがまさに忙しない師走の句になっている。


何となく寒いと我は思ふのみ

 この句には「三冬氷雪の時什麼と問はれて」と添えられている。なんとなく禅問答を仕掛けられてひねるのは馬鹿らしいとそのまま返したような句である。冬が寒いのは当たり前。それを「何となく」「我は」ととぼけている。そんなもん冬はみんな寒いわいと思わせる狙いであろう。

 何も問われないでこの句があったらおかしいが、問いの答えとしてはとぼけていて面白い。


我脊戸の蜜柑も今や神無月

 脊戸は家の裏口のこと。普通は背戸と書く。家の裏口の蜜柑も今や神無月だよ、というさしたる工夫の見えない句に思えるが子規の評点は「◎」。


正岡子規 高浜虚子 著甲鳥書林 1943年

 高浜虚子は正岡子規の

我背戸は二百十日の茄子かな

 という句に対して、「わびしい村居の模樣が想像せられるのである」と褒めている。漱石の句は茄子に対して蜜柑、二百十日に対して神無月を返したので「蜜柑」なのであろう。この掛け合いは二人にしかわからなかったのではなかろうか。


[余談]

 結論。

 お金のために働くのはやめましょう。

 人生は一度きり。

 


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