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サリンジャーの焼きそば 本当の文学の話をしようじゃないか⑦
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結局文学の胆の部分というと微妙なものの微妙さを捉えることで、それは「サリンジャーの焼きそば」や「黒板の前に立っている恰好」なのではなかろうか。何か逆張りのような皮肉なような言い方ながら、これは本当のことだと思う。
これが太宰治であれば「黄村先生の玉子どんぶり」であることは既にどこかに書いた。初期村上春樹の魅力の一つ、オールドファンを捉えた重要な要素は『グレープ・ドロップス』に見られた言語感覚で、それは「やみくろ」や「めくらやなぎ」、「ねじまき鳥」、という独特の造語力としても発展したが、基本的には既成の言葉の絶妙なチョイスであった。「つのかなとこ」や「いわし」という名詞の選択が絶妙だった。中田さんの軍隊式言い回し、騎士団長の「あらない」などへの深化はおまけである。
改めて思えば梶井基次郎の『檸檬』は檸檬でなくてはならず、丸善は丸善でなくてはならなかったのであろう。薫くんが紀伊国屋ではなく三省堂書店で待ち合わせをしていたらお話にならない。
少なくとも日本においては『吾輩は猫である』は『私は猫である』よりも優れた題名であり、『坊っちゃん』の主人公の自称が「余」では間が抜けてしまう。
太宰は『川端康成へ』で「刺す」と書かねばならなかった。これが「ぶん殴る」では笑えない。名詞であれ動詞であれ、言葉はその作品において最も適切な形で用いられなければならないのだ。
それはおそらくピノとわかめラーメンという形で川上未映子にも捉えられたものである。豊胸手術や人工授精という作品ごとのテーマそのものは末節である。「うれぱみん」と書かなければ「まんこつき労働力」と書かなければ、川上未映子はここまでの人気作家にはなりえなかったであろう。
稲垣足穂のニッケルメッキ、深沢七郎のスッテンコロコロが文学である。芥川の『芋粥』も最後に嚏が出なければ締まらなかっただろう。『限りなく透明に近いブルー』『なんとなく、クリスタル』は題名で既に勝利している。『海を感じる時』『ダイヤモンドは傷つかない』『推し、燃ゆ』はその題名が作品を相対化しうるほどの質量を持っている。言葉一つにそれだけの価値があることは、芥川が「一行のボオドレエル」と言い出す前から確かなことだ。
古池や買わず飛び込む水の音
これではいけない。
積をしても一人
これもいけない。これしきのことだが、これしきの事が文学なのではなかろうか。
芥川龍之介は『戯作三昧』において馬琴をして発句という形式の小ささを指摘させてみる。しかし『南総里見八犬伝』であれ、それが十三年間の俳諧修業がなければ成り立たないものであっただろう。
言葉一つ一つを味到することが肝要ならば、おじさんとかかとの地口も文学である。皇太子妃の首をマサカリで斬ってはならず、布団に入ってくるのはバッタではいけない。
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[余談]
トヨタイムズの「おかしくなった」批判、あれ老害違うかな……。
まあどうでもいいことだけど。
そもそもこれからモビリティって必要なのかな。つまり「移動」って必要なのかな?
アリストテレスの原文を読んでいて、意味を確認したくて英訳を参照すると、「え?こんなに変えちゃって良いの?」って思うこと多い。原文の意味を汲んで、それをできるだけ自然な映画として落とし込むみたいな。日本の哲学翻訳は割と原文の構造をそのまま移そうとしてるのが多かったイメージ。
— Yuta Komura (@Yutakom) March 24, 2024
「ホラッチョ川上」と子供の頃から嘘つきで有名だったショーンk。学歴詐称で表舞台から消えたが、説得力のある低音ボイス、流暢な映画、ハーフのような風貌という雰囲気にみんな魅了されたんだよな。帰ってきて欲しい。pic.twitter.com/r6ZJkGxW7F
— 織田三郎画伯 (@odasaburo99) March 24, 2024
英語を映画と書くのが流行っているのか?
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