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二度あることは三度あるっていうじゃない 本当の文学の話をしようじゃないか⑧ 

 書物の文字、文句を讀む事は本當の意味の讀書にはならない。この單に機械的な讀書は、若い時に全く無意識的にする。そして注意力と無關係に行はれ得る。
 それから自分の興味のために、言ひ換へれば『話のため』にのみ本を讀む事、卽ち書物からその話の部分だけを引き拔く事を讀書と云ふ事はできない。
 しかし世界でなされる讀書の大部分は、正しくこんな風に行はれるのである。幾千また幾萬と云ふ書物は每年、每月、いや每日とも云はれよう、少しも讀書しない人々に買はれる。その人々はただ讀んだ積りで居る。
 彼等は面白いために、彼等の所謂『時間つぶし』に書物を買ふ。一二時間のうちに、彼等の眼はべージをずつと通つて、彼等の頭に、見てゐた事に關する一二のぼんやりした考が殘る。これを彼等は讀書と信じて居る。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 読書好きとか、本が好きという人の大半は信用できない。彼らの大半は本来読めるはずのないものを読んだことにしているからである。そうでなければ「ハイポーが抜ける」で検索して私の記事が最初に出てくることはなかろう。「矢の根を伏せる」とはどんな作法なのか書かれている記事がない。言葉には意味があるのに、みな言葉に意味があることなど忘れて、ただ文字を追いながら自分の考えに耽っていたに過ぎない。

 この引用にある小泉八雲の言い分はさすがに大げさすぎるようでもありながら、直にリアクションが確認できる教師という特権的な立場から観察されたありのままの事実であろう。

 無意識な読書、機械的な読書、そののち彼らは「読了」と読書メーターに書き込む。中には丁寧にあらすじをまとめ完結に感想を述べるというマナー通りの読み手がいる。さぞかし「読書」ということに自信があるのだろうなと思う。
 しかし肝心なことは見落としている。

 たとえば、伊藤花は恐らく処女で、夏目夏子も入江冬子ももう生涯誰ともセックスをすることはないだろう。

 本当の読書というものは本来書かれていることを理解することであるべきである。何故なら、書き手はそれを望んでいるから。

この民衆には眞の文學にある藝術も優美も、大傑作にあるべき大思想も全く無用になつたので、學者は本當の文學を作り出す事は殆んどなくなつた。文體も美もない書物、ただ面白い話を書いて大きな金儲けができる。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 そういう書き手も実際にいるだろう。しかしそうでない書き手がいる。

二回も讀んで何等の印象を殘さないやうな著述は、本當の價値がない。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 それはそうだが今は同じ本を二回読む人間は極めてまれだ。

諸君に文學上の著作について教へる書物、創作の本當の祕訣を教へる書物は未だ存在しない。いつかはこんな書物ができると私は信ずる。しかし現在では一册もないその理由は簡單である。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 え?

 あるよ。



さて新聞物の安價な情緒的文學と、本當の文學との相道は丁度同じ程度である。安價な文學は當分暫らくは割がよい。それから本當の文學はそれ程割がよくない。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 君、漱石作品をディスっているな。ならテレパシーには気がついていたんだろうな。そう『行人』の二郎と直のテレパシー。最初は直が二郎の心を読んで

「あれ、まだ有るでしょう綺麗ね」と彼女が云った。

(夏目漱石『行人』)

 というよね。二回目は反対に二郎が閃いて直の記憶に入り込んで、

 彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻のように簡潔な閃きを自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻とを綴り合せて、もしや兄がこの間中癇癖の嵩じたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲という字は折檻とか虐待とかいう字と並べて見ると、忌しい残酷な響を持っている。

(夏目漱石『行人』)

 こんなことを言い出すよね。つまり?

 この書き方からするとどうも直の方が容易に二郎の心が読めるのであって、これ以外には明示的には書かれてはいないけれども、直は二郎が直の心を読む以上に二郎が口に出さない直への気持ち、たとえば「狎れ狎れし」いだのというちょっとした感情を知りえたのではないか。

 なんてことにも気がついていたよね?

 だから「いらっしゃい」なんだよね。

それはすべて偉大なる藝術には、文學、音樂、彫刻、建築、いづれにしても、一種の幽靈的なものが存してゐるといふことである。が、今私はこの『幽靈的』といふ語に就いて、諸君に語りたい。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 そうなんだよ。そこなんだよ。

諸君が幽靈を信じようと、信じまいと、幽靈的文學のあらゆる藝術的要素は、諸君の夢のうちに存してゐて、これを利用する道を知つてゐる人に取つては、眞に文學的材料の寳庫となつてゐる。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 そうなんだよ。なんかふわふわしているんだよ。

 偉大なる想像的作品は、眞實そのものよりももつと寫實的で、客觀的研究の結果より、もつと一見客觀的の趣を呈するものである。
 そして、すべて讀者の心をゆたかにして、一層やさしくし、眞實ならしめるやうな、美しい歌や思想となつて、彼の苦痛が現れるだらう。覺えて居て頂きたい。

文学論 小泉八雲 著||田部隆次 訳興風館 1946年

 その通り。なかなか良いことを言うね君は。しかし漱石が読めていないから失格。

 こんな「ふーん」や、

 こんな「ふーん」は、地球人の恥だよ。


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