読書好きとか、本が好きという人の大半は信用できない。彼らの大半は本来読めるはずのないものを読んだことにしているからである。そうでなければ「ハイポーが抜ける」で検索して私の記事が最初に出てくることはなかろう。「矢の根を伏せる」とはどんな作法なのか書かれている記事がない。言葉には意味があるのに、みな言葉に意味があることなど忘れて、ただ文字を追いながら自分の考えに耽っていたに過ぎない。
この引用にある小泉八雲の言い分はさすがに大げさすぎるようでもありながら、直にリアクションが確認できる教師という特権的な立場から観察されたありのままの事実であろう。
無意識な読書、機械的な読書、そののち彼らは「読了」と読書メーターに書き込む。中には丁寧にあらすじをまとめ完結に感想を述べるというマナー通りの読み手がいる。さぞかし「読書」ということに自信があるのだろうなと思う。
しかし肝心なことは見落としている。
たとえば、伊藤花は恐らく処女で、夏目夏子も入江冬子ももう生涯誰ともセックスをすることはないだろう。
本当の読書というものは本来書かれていることを理解することであるべきである。何故なら、書き手はそれを望んでいるから。
そういう書き手も実際にいるだろう。しかしそうでない書き手がいる。
それはそうだが今は同じ本を二回読む人間は極めてまれだ。
え?
あるよ。
君、漱石作品をディスっているな。ならテレパシーには気がついていたんだろうな。そう『行人』の二郎と直のテレパシー。最初は直が二郎の心を読んで
というよね。二回目は反対に二郎が閃いて直の記憶に入り込んで、
こんなことを言い出すよね。つまり?
この書き方からするとどうも直の方が容易に二郎の心が読めるのであって、これ以外には明示的には書かれてはいないけれども、直は二郎が直の心を読む以上に二郎が口に出さない直への気持ち、たとえば「狎れ狎れし」いだのというちょっとした感情を知りえたのではないか。
なんてことにも気がついていたよね?
だから「いらっしゃい」なんだよね。
そうなんだよ。そこなんだよ。
そうなんだよ。なんかふわふわしているんだよ。
その通り。なかなか良いことを言うね君は。しかし漱石が読めていないから失格。
こんな「ふーん」や、
こんな「ふーん」は、地球人の恥だよ。