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 本当の文学の話をしようじゃないか⑥俗中の俗とは言ってくれるじゃないか


まずよもう

 1/2の確率で当選するはずのペイペイスクラッチが五回連続で外れた。これは文学ではない。俗な話だ。芥川龍之介に心酔していた太宰治は、芥川の師、夏目漱石を「俗中の俗」と評した。このことに驚きつつも、私はこれまでその真意を突き詰めて考えてこなかった。

 忙しかったからである。

 しかしそろそろやっておかないと死んでしまいそうな気がしたので今日それをやってしまうことにする。左目がかなり弱っていて、右手は痛い。

 ここには、「鴎外と漱石」という題にて、鴎外の作品、なかなか正当に評価せられざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙出ずるほどくやしく思い、参考のノートや本を調べたけれども、「僕輩」の気折れしてものにならず。この夜、一睡もせず。朝になり、ようやく解決を得たり。解決に曰く、時間の問題さ。かれら二十七歳の冬は、云々。へんに考えつめると、いつも、こんな解決也。

(太宰治『もの思う葦 ――当りまえのことを当りまえに語る。』)

 こんな太宰が『人間失格』において、お薦めの本を問われてすっと『吾輩は猫である』を差し出すので、ここはシンプルにおかしいのだ。声を出して笑おう。

 どうも太宰は漱石を徹底して小馬鹿にしている。自分は漱石的「俗」ではないものを目指しているわけだ。それはおそらく『黄村先生言行録』や『右大臣実朝』にあるものだ。太宰はこの二人の天然ぶりの面白さに俗ではないものを見出した筈だ。

 ここで少し注意が必要だ。

 俗説にあるように、太宰は実朝にキリストを見てはいるわけではない。芥川はキリストに俗なものを見出した。太宰のキリストは聖なるもののままだ。太宰は井伏鱒二を完全に馬鹿にしている訳ではない。しかし井伏鱒二は聖なるものではない。面白いと思っているのだ。太宰は実朝も面白いと思っている。しかしそこには芥川に心酔こそすれ、崇拝はしない太宰の頑固なところが現れている。

 おそらく太宰が「俗」という言葉を誰かに振り向ける際には、その対極の概念は「聖」なるものではなく、太宰の頑固さによって守られている何かだ。太宰の小説には詩的感興などというものはない。そもそも太宰は詩人ではない。何か順番が違うような話になってしまうが、太宰は三島由紀夫的な華麗さ流麗さ、気どりというものを「恥ずかしいもの」として徹底的に嫌ってきたのではなかっただろうか。そして芥川がゲーテやボードレールを臆面もなく持ち出すのに対して、源実朝を書くに際しても徹底的に照れて見せる。
 太宰は形而上学的な、小むつかしい哲学句をこね回さない。神秘主義者でもないし、摩訶不思議を書かない。お化けや河童は出てこない。書かれているのは殆ど太宰が見てきたような人間である。『右大臣実朝』は違うではないかと文句を言う人があるかもしれないが、『右大臣実朝』こそほぼ太宰である。

「それでは私がひとりで食べる。私は蟹が好きなんだ。どうしてだか、ひどく好きなんだ。」おつしやりながら、器用に甲羅をむいてむしやむしや食べはじめて、ほとんど蟹に夢中になつていらつしやるやうに見えながら、ふいと、「死なうかと思つてゐるんだ。」

(太宰治『右大臣実朝』)

 これでは殆ど太宰である。『走れメロス』にしてからが、全く逆のエヒソードが元になっていると思えば、これはもう太宰節である。太宰の小説は現実から乖離しない。言ってみれば常に世間の中にあり、世俗的に見える。それこそ就職活動の話を書きながらその主人公の頭に怪しい色をした雲を流れ込ませて抜けきらないなどと書いてしまう漱石がやはり村上春樹的な神秘性を放棄しないのに対して、太宰は決してそんな怪しげなものは使わない。太宰においては現実が「女性的な堅固さ」を持っている。それは身体性などという概念には還元されない。

 そういうふうに見ていくとやはり何故「俗中の俗」と言い切れたのかが解らなくなる。

 漱石の何が批判され、太宰は何を勝ち得たのか?

 たとえば私はこうも考えてみる。

 卑俗と高尚が対立しているのではない。高尚ぶる俗と、どうしようもない己に留まる非俗の対立があるのではないかと。

 太宰の言う「俗」が漱石であるならそれは小説家がペダンチックを気取る事であり、小鳥を飼い、ダンスを踊る事であり、太宰が勝ちえたものはそうした飾りを取り払ったところにある人間、蟹をむしゃむしゃ食べ、死のうかと考えるどうしようもない生き物である筈である。そういうものを直截に捉えること、田舎者のくせに都の人と風流を競ひ奇妙に上品がつてゐる奴を突き放したところに生まれる卑屈でないもの、それをけして「聖」とは呼びえないかもしれないが、卑屈なごますりや気取りから最も遠ざかったもの、それが太宰の非俗なのではなかろうか。

 太宰は田舎者であった。しかし標準語で小説を書かざるを得なかった。現代でこそなんでもないような方言と標準語の使い分けでさえ、太宰の感性からすると既に卑屈で不純なものであっただろう。それは都会生まれの谷崎潤一郎が関西に移り住んだとたんにやすやすとむしろ楽し気に関西弁で小説を書き始めたことを鑑み、田舎者の泉鏡花が盛んに江戸言葉を駆使したことを思えば実に馬鹿馬鹿しいようなこだわりながら、太宰はつい江戸言葉をまねてしまわないよう線引きをしていたように思える。

宗匠頭巾をかぶって、『どうも此頃の青年はテニヲハの使用が滅茶で恐れ入りやす。』などは、げろが出そうだ

(太宰治『或る忠告』)

 この強烈な羞恥心と拒絶、むしろ裏返しに田舎者の卑屈さと見做されかねないこの頑固さこそが漱石を「俗中の俗」と言わしめた太宰の矜持ではなかっただろうか。

 無論そんな太宰が『行人』の重箱や『彼岸過迄』の市蔵の母親の残酷さ、『こころ』の「私」が先生に惹かれる理由や『道草』の健三の出自に気がついていたわけでもない。

 つまり批判者であることは勝者であることを意味しない。太宰は漱石のスタイルを拒み、その果実を摘まなかった。だから偉いわけではない。ただこの頑なな羞恥心が罵倒名人太宰の核にあることは確かだ。太宰の罵倒はもう一つの名人芸、非俗な芸術である。

[余談]


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