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天皇は乳房か 本当の文学の話をしようじゃないか⑨


 谷崎潤一郎が大谷崎であり、本物の文学者であったことを疑うものはあるまい。しかしおそらく多くの人はこの二つのことを知らなかったはずだ。それは谷崎潤一郎がこんな悲壮な覚悟で書いていたこと。


現代小説全集

 そして谷崎の原点に小波、巖谷漣山人の「新八犬傳」があるということ。

 つまりその原点には間接的に馬琴が隠れていることにもなるが、そこは話を飛ばさず、しばし巖谷小波について考えてみよう。

 巖谷小波はさまざまな「お話」というものを書いてきた。その多くが子供向けと言ってよい。御伽噺の開拓者とも言われている。

 谷崎はそう複雑なことは指摘していないのであまり小むつかしいことを書いてもしょうがないが、巖谷小波は児童文学というごまかしのきかない分野でひたすら「お話」というものがどう成立するのかということを確認し続けた文学者であると言ってよいだろう。

 実際御伽噺と言っているので、そのお話はリアリズムではありえない。御伽噺という言葉はしばしば非現実的であるという意味で使われる。しかし何故この児童文学者は子供たちに非現実的なお話を与え続けたのだろうか。

 それは谷崎少年を変態に育てる為では無かろう。たしかに御伽噺は空想を広げさせる効果があるように思う。そこには何か知性に関わる豊かさがあるような気がする。ただ何が投げられ何が受け止められたのかということは曖昧だ。谷崎は「それまでにも小説らしいものを讀みもし、書きもしたけれども」と書いている。わずか十三歳ごろまでに、習作にしろ何やら小説を書いていたことになる。そして大いに感心している。このことについて、私は不味いタイトルをつけた。「創作意欲の萌芽は漣山人から」と決めつけてしまった。しかしよく読むとむしろ書かれているのは読む喜びなのだ。たしかに小説のようなものを書き始めてはいたが、巖谷小波によって開眼したのは読む力なのではなかろうか。

 つまりあらゆる可能性を否定しない御伽噺によって、谷崎文学の基礎となる読む力が身に着いたと。「そんなことはあるわけがない」という決めつけが正しい読みの邪魔になるのではないかと。

 そんなことをオオストラリアの猿について書いたときに考えた。

 やがて谷崎は神よりも自分を信じるまでのものを自分の中に創り出した。そして三島由紀夫の『美しい星』が理解できる年寄りになった。

 これらのことを一連なりに考えてみると、何が不味いのか見えてくるような気がする。不味いのは、この本を買わないことだ。

 間違いない。

 いやそれだけではなく空想力の枯渇だ。

 例えば島田雅彦はまさにアルマ二郎的な絶望的な国語力の持ち主である。

 その絶望的な空想力は誤読の自由、創造的誤読と強弁しながら『こころ』のKを幸徳秋水、またはキング、天皇だと言い放つことに役立った。これ、いかにもセンスないなあというチョイスではなかろうか。少しも創造性がない。なんというか、全然面白くない。笑えもしない。Kを名字だと勘違いしている所為でもあるが、無理やり感が半端ない。せめて天皇はエンペラーであろうし、いわゆる左翼活動家の吹き溜まりとしての文学の一番駄目なところが出ている。

 なんでも天皇を持ち出すのはさすがに恥ずかしいふるまいである。

 一方現代日本文学の唯一の希望と言ってよいかもしれない平野啓一郎までが、金閣寺は天皇だと言い始めた。

 以前はそういう解釈もありうるというニュアンスに受け止めていたが、どうも最近は狭いところに迷い込んでいるように思う。

 金閣寺は乳房でもあり有為子でもありうるのであろう。「これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな」という程度の矜持もなく書き、そして読んできたのかと心の底から疑問だ。

 明らかに何かアンバランスなのだ。

 書いているもののレベルからして、どうしてこうも読みのレベルが低いのか?

 仮に『金閣寺』を読んで「有為子は留守だった」という一言にしびれなければ、その人は多分幼児期に絵本や昔話を十分に読んでこなかったはずだ。硬直に考えれば「有為子は留守だった」ってなんだ、という話になる。なんで金閣寺が乳房なんだと。しかしそもそも人間ほど非現実的なものはなく、現実というのは腹が減ることではないかね。つまり菓子パンと最中が現実で、溝口の考えていたことは全て非現実ではなかったか。

 金閣寺を天皇のアレゴリーと決めつけることは南泉斬猫の公案の答えは天皇だと答える程度に意味のないふるまいである。基本的に公案というのは外側から見ると明確な答えが見つからないように工夫されている。当然様々に解釈されているが、解釈の固定された公案というものは既に価値を失っている。三島由紀夫が「これが天皇のアレゴリーだったならとても読む気がしないな」と言いはなかったのは、その短絡により創造的精読の余地が失われてしまうからであろう。金閣寺を天皇のアレゴリーと見做すことは、『金閣寺』を涜すふるまいだ。金閣寺が天皇なら、天皇は乳房ということになる。天皇が乳房でいいわけはあるまい。 

 平野啓一郎は三島由紀夫論を書く前に巖谷小波を読むべきだったのだろう。
 島田雅彦は夏目漱石の小学生時代の作文を読み、K.Shioharaのサインを確認して貰いたい。

 しかし一番いけないのはこんなダメなものをちやほやともてはやす奴らなんだけどね。何年かけて書いても駄目なものは駄目。そう自分で判断できないならそういう仕事に関わらないでほしいと心から願う。

 読者も同じ。


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