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巖谷小波の謎

 気になったことは時間が経っても調べる質である。そして謎だけがどんどん増えていく。Wikipediaによれば、巖谷小波に関して父と姉の存在のみ書かれていて、その他の兄弟には言及がない。『小波身上噺』では「同胞(きょうだい)の中で上二人が女であり、下二人が女であつた爲か、人形を持つて遊んだり、飯事をしたりする事も好きであり、上手であつた」と書かれている。四人の存在が消えている。と思えば「長兄の歸朝」に「長兄の獨逸より歸朝したのは…」とあり、十五六年長の兄がいたことが解る。また次男は養子にやられていて巖谷小波は三男だったことも解る。そして四男弟春生がいたことも解る。妹の一人は菊枝という名だったことも解る。つまり『小波身上噺』も『我が五十年』『私の今昔物語』も誰にも読まれていないのではなかろうか?

 それでもWikipediaで「巖谷小波」のページを作成しようというその人の勇気には感心するが、これはけして褒められたことではない。

 またWikipediaによれば尾崎紅葉の『金色夜叉』に関して「文芸評論家北嶋廣敏によれば、主人公・間貫一のモデルは児童文学者の巖谷小波である。」という記述がある。

 北嶋廣敏は昭和23年生まれの人である。いつ発表した説なのか詳らかにしないが、「1971年に早稲田大学第一文学部仏文科を卒業。」とあるのでもはやこれ以上の詮索は不要だろう。

 なぜならば昭和2年の『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』(巖谷小波、黎明閣 )に「金色夜叉の主人公間貫一は、私をモデルにしたものだと云ふ浮名が、この十數年來幾度か繰り返されて、その度私は一種くすぐったい感じに耐えなかつた」と既に書かれているからである。この噂の言い出しっぺはやはり紅葉門下の柳川春葉ではないかとされている。またこの『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』では、自ら奮起してモデルに名乗りを上げた黎明閣主人・武藤清宏に関しても述べられ、その後詳細に巖谷小波自身と間貫一が比較されている。無論外国の小説を読んで面白いから翻案してこんどの小説に使うという尾崎紅葉の発言も記録されている。しかしWikipediaによれば、

1980年代になって、硯友社文学全体の再評価の中で、典拠や構想についての研究が進み、アメリカの小説にヒントを得て構想されたものであるという説が有力になり、2000年7月、堀啓子北里大学講師が、ミネソタ大学の図書館に所蔵されているバーサ・M・クレー (Bertha M.Clay) ことシャーロット・メアリー・ブレイム (Charlotte Mary Brame) の 『Weaker than a Woman(女より弱きもの)』が種本であることを解明した。

 ……と、いかにもずっと後で、『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』とは無関係に正解が出たかのように書かれている。しかし、この点ついては巖谷小波が自身のエピソードと外国の小説を合わせたものだとしており、またお宮を蹴るというのは実は尾崎紅葉が紅葉館の玄関を上がった二階の廊下で、「なぜお前は巖谷の女房にならないのか」と蹴ったエピソードからきていることを指摘している。つまり『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』は完全無視されている。あるいは『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』誰も読んでいなかった?

 しかしこれは恐ろしい事ではなかろうか。ちゃんとした出版物が誰にも読まれず、後の世で、資料にもされず、忘れ去られ、完全になかったことにされている。私の漱石論もこんなことなってしまうのだろうか?『金色夜叉の真相 : 所謂る間貫一の告白』の執筆にあたっては紅葉館に各新聞社を招き、記者会見を行っている。それでも情報は消えてしまうのだ。

 ちなみに『現代女性の幻影虚栄の夢 : 一名・モデル金色夜叉』(信陽堂編輯部 著信陽堂書店 1924年、大正13年)おいて既に、「初めて『金色夜叉』のモデルを具體的に發表したのは、雜誌『婦人くらぶ』(明治四十三年九月號)である」とされており、そこで間貫一は小波巖谷季雄、お宮は寄食先の川田剛の娘・綾子、富山唯繼は男爵日本銀行総裁川田小一郎の三男・函館船渠株式會社取締役工学博士川田豊吉とされている。

 また『現代女性の幻影虚栄の夢 : 一名・モデル金色夜叉』によれば小波氏は『現代』(大正二年九月號)において、そもそも婚約はなく、話が大分誇張されていることを語っている。






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