2023年1月の記事一覧
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑨ これだから自殺などはできないはずである
いまだにやらずにいる
また「書いている現在」が顔を出したところ。今回はやや具体性があるが、むしろ正体が掴めない。
演説家志望のようでもあり、小説家志望のようでもあり、演説経験者のようであり、まだ何も書いていないようでもある。それでいてそれなりの身分になっているのだからなんとも怪しい。どうもつじつまが合わない。残念ながら、ここは漱石が明確な「書いている現在」を決めかねているように見えるところ
岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する72 夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑧歯されない糸ごんにゃく、にやこい生息子
歯(よはひ)されない
この「歯(よはひ)されない」に岩波はこう注解をつける。
これでもぎりぎり意味は通じなくはないが、ここはもう少し柔らかくしてはどうか。
この場合は「仲間にして貰えない」程度の意味ではなかろうか。しばらく後に「しきりに帰れと云う。しかも実際自分のためを思って帰れと云うんじゃない。仲間入をさせてやらないから出て行けと云うんである。」とある。
正式の学問をしないと
こ
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑥ シキでも飯場でもジャンボーでも
時計がないんで何時だか分らない
ここはぎりぎり読みすぎてはいけないところ。この「時計がないんで」というのは、
という辺りと考え合わせると、
こんな形で財布のようにどこかに消えてしまったのではなかろうか。無論ここは書かれていないところなので読みすぎはいけない。しかし「時計がないんで」と言われてみると改めて蟇口のゆくえが気になる。主人公は気にしていない。そこからも主人公が、何も知らない坊ち
夏目漱石の『こころ』をどう読むか478 Kに友人はいたか、いないか?
Kに友人はいたか、いないか?
全ての漱石論者が誤読を繰り返す理由の一つに、夏目漱石の書き方が「はっきりしていない」「書かれている事実が明瞭ではない」ということが確かにある。
例えば、この問題。本文を引用して設問したとして、正答率はいかほどだろうか?
いやそもそも出題側で正解が用意できるだろうか?
同様のことがこの「Kに友人はいたか、いないか」問題に関しても言える。どうしても作品の中の
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑤ ディアゴスティーニ方式の現在
今の朋友から評すると
どういう了見か、『坑夫』の主人公は書かれている現在と距離を取りたがる。この引用部分の「今は」の今は書いている現在であることが「今の朋友」で解る。この当時十九歳であった主人公は、その後台湾沖で難船して死にかけ、今ではけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われていて、なおかつ朋友がいる。孤独ではない。
漱石はこのようにして書き手の現在を少しずつ明
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか④ 全く人間の心を解していないものがだいぶんある
空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい事
Kの昼飯はどうなっていたかと書いた途端に、「たびたび空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい」と言われてしまう。なるほど夏目漱石程文豪飯に厳しい作家はあるまい。「どんなに気分がわるくっても、煩悶があっても、魂が逃げ出しそうでも、腹だけは十分減るものである」と真面な飯を食べない『歯車』の主人公に文句を言っている。いや、逆だ。芥川龍之介が『坑夫』に逆
夏目漱石の『こころ』をどう読むか477 朝刊を読め
乃木大将は何故死んだのか?
それでもこれまで私は乃木静子の死にばかりフォーカスして、肝腎なことを見逃していたかもしれない。
確かに漱石は新聞に載った乃木希典の遺書を先生に読ませながら、敢えて軍旗を奪われたことにフォーカスして、「乃木静子の死」といういささか度の過ぎた冗談から読者の気を逸らせるという、ミスディレクション、赤ニシンというレトリックを使っている。
しかしよくよく考えてみれば、そ
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか③ 何かの参考になりはすまいか
台湾沖で難船した
前回も触れたが、どういう了見か漱石はこの『坑夫』という作品において、書かれている現在と書いている現在の距離を大きく空けようと努める。その距離は他の作品と比べても大きい。さらにここでは「台湾沖で難船した」などと、その後の主人公の人生が波乱万丈であることを具体的に匂わせる。これは漱石作品としても珍しいことではあるし、他にこれといって類似の手法が使われた事例を思い出せない。というの
夏目漱石の『こころ』をどう読むか476 Kの昼飯
Kは昼飯をどうしていたのか?
Kの下宿代は先生が払っていた。しかしKと先生が待ち合わせをして昼飯を食べる場面はない。下宿に戻れば飯を出してくれるとしても、Kはその他の生活費全体をどうしていたのだろうか。
鉛筆はどうしていたのか?
専門書はみんな立ち読みで済ますのか?
話を壊すことを前提にして敢えて考えてみれば、まず最初に言えることは
・先生の遺書に書かれている内容が全て正
夏目漱石の『坑夫』をどう読むか② 漱石は無理を押し通す
要するに分らない
分かるのか解らないのか解らない文章だ。「落ち着いた今日の頭脳の批判を待」てば「盲動に立ち至るまでの経過は」わかるものの、結局「盲動」に関しては解らないということか。
例えば『絶歌』において元少年Aがあの頃のタンク山のことを思い出して書いてみる。それはスペルマと言いスペクトラムと言い大袈裟な比喩と気取りに溢れた蒼い描写だった。
しかしその描写はまたどこかプルーストを思わせ
岩波書店・漱石全集注釈を校正する70 断々乎として故障を云いやしない、靴のまま飛び上がり者
今日は例に似ず大いに断々乎としているね
主要な国語辞典に「断々乎」の項目はない。
意味は用例からしても文字面からしても「断乎」「断固」と同じものと考えられる。「乎」に「その状態であること」という程度の意味があるので、「岌々乎」といった表現もある。
ちなみに戦前は盛んに用いられた「断々乎」は、青空文庫で検索すると坂口安吾が盛んに用いるほかはわずかに二例ほどしか使用例がない。敗戦により「断々