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夏目漱石の『坑夫』をどう読むか④ 全く人間の心を解していないものがだいぶんある

空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい事

 自分は昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て、袷の尻を端折ったなり、松原へかかっても、茶店へ腰を掛けても、汽車へ乗っても、空脛のままで押し通して来た。それでも暑いくらいであった。ところがこの町へ這入ってから何だか空脛では寒い気持がする。寒いと云うよりも淋しいんだろう。長蔵さんと黙って足だけを動かしていると、まるで秋の中を通り抜けてるようである。そこで自分はまた空腹になった。たびたび空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい事で、かつこの際空腹になっては、どうも詩的でないが、致し方がない。実際自分は空腹になった。家を出てから、ただ歩くだけで、人間の食うものを食わないから、たちまち空腹になっちまう。どんなに気分がわるくっても、煩悶があっても、魂が逃げ出しそうでも、腹だけは十分減るものである。

(夏目漱石『坑夫』)

 Kの昼飯はどうなっていたかと書いた途端に、「たびたび空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい」と言われてしまう。なるほど夏目漱石程文豪飯に厳しい作家はあるまい。「どんなに気分がわるくっても、煩悶があっても、魂が逃げ出しそうでも、腹だけは十分減るものである」と真面な飯を食べない『歯車』の主人公に文句を言っている。いや、逆だ。芥川龍之介が『坑夫』に逆らったのだ。

 しかし「いかがわしい」とはどういうことか?
 岩波はここに注をつけていない。

いかが‐わし・い【如何わしい】‥ハシイ 〔形〕[文]いかがは・し(シク)
①正体がはっきりしない。疑わしい。怪しい。信用ができない。「―・い人物」
②風紀上よろしくない。好ましくない。「―・い絵」

広辞苑

 これはどちらの意味だろう。敢えて言えば「信用ができない」という意味だろうか。しかし「空腹になっては、どうも詩的でない」ので『歯車』の主人公はちゃんとした食事ができなかったのではなかろうか。三島由紀夫は『金閣寺』で敢えて空腹を偽装した。金閣寺を焼いた男は確かにいかがわしい。

御前さん夕食を食うかね

 いや、そう云うよりも、魂を落つけるためには飯を供えなくっちゃいけないと云い換えるのが適当かも知れない。品の悪い話だが、自分は長蔵さんと並んで往来の真中を歩きながら、左右に眼をくばって、両側の飲食店を覗き込むようにして長い町を下くだって行った。ところがこの町には飲食店がだいぶんある。旅屋はたごやとか料理屋とか云う上等なものは駄目としても、自分と長蔵さんが這入ってしかるべきやたいち流のがあすこにもここにも見える。しかし長蔵さんは毫も支度をしそうにない。最前の我多馬車がたばしゃの時のように「御前さん夕食を食うかね」とも聞いてくれない。その癖自分と同じように、きょろきょろ両側に眼を配って何だか発見したいような気色がありありと見える。自分は今に長蔵さんが恰好な所を見つけて、晩食をしたために自分を連れ込む事と自信して、気を永く辛抱しながら、長い町を北へ北へと下って行った。

(夏目漱石『坑夫』)

 あちらこちらを攻撃するものだ。
 それにしてもこう読んでみると『三四郎』の名古屋の宿での気遣いのなさが思い出される。若い三四郎にしてみれば、自分はもう弁当を食べており、後は女と同宿することで頭がいっぱいで女の晩飯のことは頭にない。先生もKの昼飯には関心がない。しかし三四郎は「御前さん夕食を食うかね」と訊くべきであったし、先生は御嬢さんに頼んでKに沢庵と握飯の弁当を用意してもらうべきだった。
 そもそもKは昼飯が食えないから死んだのではなかろうか?

有るようで、ないようでその正体はどこまで行っても捕まらない

 で、馬鹿が二人長蔵さんに尾ついていっしょに銅山まで引っ張られる事になった。しかるに自分が赤毛布と肩を並べて歩き出した時、ふと気がついて見ると、さっきのつまらない心持ちがもう消えていた。どうも人間の了見ほど出たり引っ込んだりするものはない。有るんだなと安心していると、すでにない。ないから大丈夫と思ってると、いや有る。有るようで、ないようでその正体はどこまで行っても捕まらない。

(夏目漱石『坑夫』)

 この感覚は私の感覚に似ている。既に述べた無限退行そのものが「陥る」だろうという思考実験であり、実際にはできないことだとは分かるが、自分に出来るのは精々二つばかりの退行だ。後はなんというか右手と左手のじゃんけんのようなものでかなりいかがわしい。まず「その正体はどこまで行っても捕まらない」というのが一番実感に近い。
 それにしてもこの『坑夫』という作品は徹底して意識というものを論っていることが分かる。


全く人間の心を解していないものがだいぶんある

 その後さる温泉場で退屈だから、宿の本を借りて読んで見たらいろいろ下らない御経の文句が並べてあったなかに、心は三世にわたって不可得なりとあった。三世にわたるなんてえのは、大袈裟な法螺だろうが、不可得と云うのは、こんな事を云うんじゃなかろうかと思う。もっともある人が自分の話を聞いて、いやそれは念と云うもので心じゃないと反対した事がある。自分はいずれでも御随意だから黙っていた。こんな議論は全く余計な事だが、なぜ云いたくなるかというと、世間には大変利口な人物でありながら、全く人間の心を解していないものがだいぶんある。心は固形体だから、去年も今年も虫さえ食わなければ大抵同じもんだろうくらいに考えているには弱らせられる。そうして、そう云う呑気な料簡で、人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにして見せるのと騒いでいるから驚いちまう。水だって流れりゃ返って来やしない。ぐずぐずしていりゃ蒸発しちまう。

(夏目漱石『坑夫』)

 夏目漱石作品はディスコミュニケーションの話だなどと書いて威張っていると恥ずかしい。ディスコミュニケーションどころか自分の意志まで怪しいのだから要領を得ない。何しろ今「この『坑夫』という作品は徹底して意識というものを論っている」と書いた途端に「意識」ではなくて「心」だと返してくる。そして「それは念と云うもので心じゃない」が「いずれでも御随意」とは言ってくれるものだ。
 さらに「人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにして見せるのと騒いでいるから驚いちまう」はまさによく言ってくれたというところ。以前私にカーネギーの『人を動かす』を読ませて教育しようという馬鹿がいたが、一個人の一回限りの成功体験の自慢話を真に受けてどうするのか。再現率は科学的に検証されているのかね。しかも現に私が動かされなかったことが馬鹿の証明ではないかね。しかし実際世間ではカーネギーが重宝されているのだから驚いちまう。

冷飯草履

自分でこの小説の中を縦横に飛び廻って

 もっとも自分はただ煩悶して、ただ駆落をしたまでで、詩とか美文とか云うものを、あんまり読んだ事がないから、自分の境遇の苦しさ悲しさを一部の小説と見立てて、それから自分でこの小説の中を縦横に飛び廻って、大いに苦しがったりまた大いに悲しがったりして、そうして同時に自分の惨状を局外から自分と観察して、どうも詩的だなどと感心するほどなませた考えは少しもなかった。

(夏目漱石『坑夫』)

 物語世界に身を置く快感、それを『坑夫』の主人公は否定している。逆に夏目漱石はまさに「自分でこの小説の中を縦横に飛び廻って、大いに苦しがったりまた大いに悲しがったりして、そうして同時に自分の惨状を局外から自分と観察して、どうも詩的だなどと感心」していることは想像に難くない。未成年に投影しているから腹が減り、芋を食べるのだろう。これは自分でないものを小説に書くことの快感でもある。これはなかなかませた感が絵でもある。




[余談]

 岩波は芋が安いという説明を付けない。

 いや、そう思っていたらこの間お婆さんが焼き芋屋の屋台で、「小さいのを一つ」と注文して、「1200円におまけ」と言われ、「高いわね」と言っているのに出くわした。

 今焼き芋はあほみたいに高い。
 昔は安かった。

 そんなことももう解らなくなっているのだろうな。



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