芥川龍之介の『歯車』をどう読むか29 生肉でもあるまいに
ココアを二杯、ブラックコーヒーを一杯、ウイスキーを一杯、『歯車』という作品の中で「僕」はほとんど食事らしい食事をしていない。それはけしてたまたまではない。
蛆はまるで肉を食うことを禁じるように今更どこかから湧いてきた。
生肉でもあるまいに!
それが仮にもビーフステーキであるなら、蛆も焼けて出て來た筈だ。それなのについついにょろにょろしてしまう。にょろにょろ君はなかなか死にきれない。夏目漱石の命日に死ぬつもりだったのに、まだ死ねない。
ライ麦パンやクロワッサンの一切れも食べることなく、牛乳まで入れないで珈琲を飲む。いやこれは言いがかりではないのだ。芥川龍之介はわざわざここでただ珈琲と書けばよいところで「牛乳を入れない珈琲」と書き、何かを訴えている。何故ならココアはただココアと書いている。
つまり「僕」は、「親子丼」だの「カツレツ」だの「地玉子、オムレツ」だけではなく、クロワッサンの一切れも口にしないのだと。そんなパンくず一つ落ちていないだろう部屋を大きな鼠が走る。そんな鼠に投げ与えられた言葉は「くたばってしまえ」。「くたばる」はまさに死を意味する。また同時にやせ衰えて衰弱することも「くたばる」と言う。
比較してみるとやはりわざと食べない感じがする。保吉にしても、
こうしてものを食いながら登場したというのに。
即身仏になろうとするものは、体を清めるために次第に食事の制限をしていく。最後にはやせ衰えてミイラになる。
しかし珈琲に牛乳さえ入れず、ウイスキー・ソーダ(何故か「僕」は曹達水の中にウイスキイを入れている。つまりソーダ・ウイスキーだ。)のつまみにナッツかチーズでも食べないとすれば、ミイラになるのは「僕」である。何故「僕」は「親子丼」だの「カツレツ」だの「地玉子、オムレツ」を食べないのか。キャベツもキャラメルもカニ料理も『歯車』の主人公には相応しくないからだ。『魚河岸』では何件目かの店でさえライスカレエを食べていたのに。
この『歯車』の主人公は、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公のように菓子パンを買ったりもしない。太宰治の『黄村先生』のように玉子丼を食べない。『歯車』の主人公にはライスカレエよりも「牛乳を入れない珈琲」が相応しいからだ。
レストランは定休日だった。だがそれだけではない。芥川は「僕」に固形物を与えないことにした。
どうも徹底している。これは偶然ではない。
四方田犬彦は江藤淳の死に関して「吉本隆明のように、ご飯にネギとカツオブシをブッかけてくっていりゃあ大丈夫、というところが少しでもあったらなあと、思うのである」と書いている。
しかし『歯車』の主人公にはまた「ご飯にネギとカツオブシをブッかけてくっていりゃあ大丈夫、というところ」はなかろう。四方田犬彦はここで重大なミスを犯していることに皆さんお気づきだろうか?
醤油を忘れている。
あるいは『歯車』の主人公は書かれていないところでご飯にネギとカツオブシをブッかけて、なんなら納豆とオクラと生卵ものせて、鮪のブツやイカそうめんものせて、牡蠣醤油で味付けしてどんぶり飯を掻き込んでいただろうか?
いや、それはあるまい。
芥川龍之介は『歯車』の主人公には殆ど固形物を与えないことにした。それは何故か。
ここで曲がりなりにも『坑夫』の主人公をたじろがせているものは蠅そのものでもあるが、さらに正確に言えば死を賭して焼き饅頭にたかる蠅の食欲である。もしも『歯車』の主人公が肉に手を付けなかったとすれば、それは小さい蛆が一匹静かに肉の縁に蠢いていたことにたじろいだのであり、たじろがせたのはにょろにょろ君の食欲なのだ。何件も飲み歩いてなおかつライスカレエを食べる食欲、そがんなものはもう「僕」にはない。肉はにょろにょろ君の住まいでもあり食べ物でもある。
自分が竜ではなくにょろにょろ君であり、こんな風に肉を食っているとしたら……
そう思えばこそ食欲は失せたのではなかろうか。
誰かの執念じみた食欲は見る人の食欲を奪うものだ。
それは食欲も睡眠欲も失せたがあっちの方だけはお盛んというジョークにはつながらない。
多分。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?