これのことか?
はたまたこれのことなのか?
あるいはこの(畧)という結びの事なのか?
私には『温泉だより』に出て來る「国粋的省略法」が解らない。
はて、国木田独歩に「の字さん」というような名前の省略があり、それが国粋的省略法と呼ばれていたかどうか、……そう考えてみて、やはり私には全く記憶がなかった。
名前を略すだけならこのように某を使えば事足りるも、これは誰しもが用いる方法であり国粋的省略法とは言わない。仮に国木田独歩を国粋的作家と見做したとして、彼独自の省略法を指すのでなければ国粋的省略法とは呼ばれない筈だ。
しかし問題は既に、
として国粋的省略方が示されていて、
「の字さん」という省略が国木田独歩のオリジナルではないからである。オリジナルと云えばむしろ(畧)として読者にエピローグをゆだねる結びの方が(古今東西に類似の例が皆無かどうかは別として)オリジナルぽい省略法である。
つまり「の字さん」という省略を芥川龍之介がわざわざ「国木田独歩の使った国粋的省略法」と書いている意味が解らないということになる。芥川は確かにこの省略法で遊んでいる。
略すことにさして意味のないところ、むしろ略して不自然になるように芥川はこのレトリックを使っている。
確かに遊んでいて不自然を拵えている。この不自然は跳ね返って「萩野半之丞」や「国木田独歩」と云ったフルネームのもっともらしさを揶揄っているように見えてくる。
一般的には芥川は国木田独歩を高く評価していたと言われる。ここで芥川が「轢死する人足の心もちをはっきり知っていた詩人です」と言っているのは、
……この結びにある「どうにもこうにもやりきれなくって」という箇所を指すのだろうか。
だとしたら私はやはり、国粋的省略法と「詩人」という表現の中に、芥川龍之介の「ちょっと人の悪いところもある龍之介」の部分が出ているようにも感じる。
だが分からない。
さらに言えばこれまでこの国粋的省略法が研究された気配もないのだ。谷崎のハイポーの様に打ち捨てられている。
これでは駄目だということだけが解る。
しかし『温泉だより』の謎はこれだけではないのだ。