芥川龍之介の『杜子春』をどう読むか① 人間は皆薄情
この高橋氏は続けて「まずなんのとりえもない青年ってところがいいでしょう」と強調する。青年が悪戯をしても仙人と妻はちゃんと待っている。笑って迎えてくれる。人生というものは、こういうものじゃなくてはいけないのではないかと。才能や手柄のご褒美ではなく、こうした幸福が与えられるべきなのではないかと。この時彼の息子は農薬を飲み生死の境をさまよっている。
私は芥川の『杜子春』を読み返す度に、この高橋氏の「まずなんのとりえもない青年ってところがいいでしょう」という言葉を思い出す。そんな人生が誰にでも与えられればそんなに素晴らしいことはないとは思いつつ、そんな都合のいいお伽噺をいい大人が「ぼく」(浪人生)に嬉々として話していることに何か毒が吐けないような感じに戸惑う。そもそもお伽噺を批判しても何の意味もない。それはお伽噺であり現実ではないからだ。それでもいい大人が現実はお伽噺のようでなくてはならないと考えている。『ぼくの大好きな青髭』はまだ少なくない割合の人たちが「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」と考えていた信じられないくらい大昔の小説だ。
このおためごかしを拒絶したのが村上春樹さんなのだと私は勝手に考えている。
学生運動を引退後、高度資本主義社会にうまく迎合できなかった村上春樹さんはデタッチメントと称する引きこもりに入る。そこからなんとも賺した作品群が生まれて来た。
高橋氏の「仙人の話」と引き比べててみた時、『杜子春』はいかにもおとぎ話的ではなく、むしろ初期村上春樹作品のような賺しとデタッチメントの作品であるように感じられないだろうか。
何度も金が得られるというのは確かにお伽噺である。大抵の人は金は「くれ」とは言うものの、「あげる」とは言わない。現実では誰もお金はくれない。しかし話はそもそも金の問題ではなくなっている。杜子春は孤独だ。
改めて『ぼくの大好きな青髭』を読み返していて、引用して、気がついた。庄司薫さんはここで「倖せ」という文字を使っている。普段何気なく使う「幸せ」の文字に人偏が足されている。いや、これは時代の話ではなく、そもそも人間を離れた倖せなどあるのだろうかと改めて気づかされたのだ。「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」などという発想がおためごかしであるのと同じ意味で、人間を離れた倖せもまたナンセンスなものなのではなかろうか。
一人の時間は大切だが、間接的であれ、時には他人とコミュニケーションを取らなければ、それでも幸福でいられるとはとても思えない。では杜子春が選んだ「人間らしい、正直な暮し」とは何だったのか。そのヒントは畜生道に落ちた父母にあると私は考えている。
この杜子春の「人間というものに愛想がつきたのです」という言葉のうちには自分も含まれていよう。
人間という大きなものを語るには、余程の核心をつかまねばならないだろう。そのためにただ金のために友人のふりをする何人かを知っているだけでは足りない。おそらく杜子春こそは金の爲でさえ誰かの友人になることのできない自分を知っていたのだ。あるいは書かれていない部分には、杜子春の非人情ぶりが隠れているのかもしれない。
さてここで杜子春が仙術を手段としてかなえたい目的は果して何だったのであろう?
大抵の人は奇跡の力が得られればまず金が欲しかろう。しかし杜子春は「いや、お金はもういらないのです」と明言している。仙術を使い、自分で自由に金を得たいわけではないのだ。では一体何がしたかったのか?
何か人間らしい親子の情を語っているようでありながら、畜生道に堕ちた父母のために仙人になることを諦めたのであれば、杜子春が人間に留まったのは、仙人になれば仙術で、畜生道に堕ちるようなことをするつもりでいたからではなかったのか。
その仙術は「その青年は途中でそのお守りの力を借りて、ある屋敷から美しい娘を盗み出してしまう。もちろん大騒ぎになって沢山の追手が来るわけですが、それもお守りの力で寄せつけない」といった具合に、必ず女に向かっていたとは限らない。しかし人間に向かって仕掛けられ、人を操ることにはなっただろう。そこは具体的には書かれていないので、飽くまでも「金が目的ではない」ということろに留まるべきではある。ただ畜生道に堕ちた父母の息子が「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」という問題解決に仙術を使うことは無いだろう。
あるいは仙人の「貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」という問いかけに「今は出来ません」と答えた杜子春がやがて諦めることになる当初の目論見には、人頼みに出来ない、密かなものがあったとまでは考えても良いだろうか。それは例えば透明人間になって女湯を覗くといったものでないとしたら、杜子春を畜生道に堕とすおぞましいものではなかったのか。
それはつまり言われてみればおぞましいものであって「その青年は途中でそのお守りの力を借りて、ある屋敷から美しい娘を盗み出してしまう。もちろん大騒ぎになって沢山の追手が来るわけですが、それもお守りの力で寄せつけない」というお伽噺の中で青年が美しい娘をレイプしているであろうことが明らかなように、言い方一つでごまかされそうなこと、少なくとも本人の意思とは無関係に誰かを支配する残忍な振舞、やられる側からしてみれば決して容認できないこと、強い言葉で非難すべきこと、許されない暴挙であり、断固として非難すべきことであろうことは想像に難くない。
杜子春は一人の生活を選んだ。誰かといれば、その人を傷つけてしまうことが確実だからだ。杜子春はなんのとりえもない青年ではなく、何かをやらかしてしまう男だ。
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