芥川龍之介の『一夕話』をどう読むか① ただ一つの現実があるのみだ
大正八年十二月に書かれた『葱』と大正十一年六月に書かれた『一夕話』を比べて読むとどうだろう。例えば「通俗小説的な恋愛と生活の衝突」というものが前者のモチーフであれば、後者は「当世の通人に対する反動で俗に堕ちる女」であろうか。
当然そこには芥川らしい逆説が持ち込まれる。
ここで現れる通人若槻は『葱』で言えば自称芸術家の田中君であろうか。お君さんはデートの最中にネギを買うことで実生活に留まるが、小さんは浪花節語りと恋に落ちることで実生活の木馬を飛び下りた。角度、あるいは方向性は違うが、こうして比較してみると『葱』では自称芸術家を叩きのめした生活が、『一夕話』では、
……とされる通人と共に、打ち捨てられるべきものに転じている。
猛烈な恋愛、猛烈な創造の歓喜、猛烈な道徳的情熱と大正十一年六月に書く芥川は既に激しい精神衰弱を経ていた。しかし関東大震災(大正十二年九月)で人々の実生活も命もぼろぼろに打ち壊される様をまだ見ていない。通人若槻は田中君の様に笑われてはいない。むしろ「いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい」と同情されてもいる。しかし芥川の毒は太宰治以上に遠慮がない。
この嘆きは、
以前よりさらに深刻に言葉の勢いを増している。武者小路実篤を理解して何になるんだ? とはすなわち、おれの小説集を読まないでどうするんだ?という意味になるのだろう。
全く同感だ。
人にはいくつもの選択肢がある。芥川龍之介の小説を読むか読まないか、夏目漱石の小説を読むか読まないか、天丼を無料の大盛にするかしないか、それは個人の自由であるとされてきた。
しかし私は最近安易な非決定論から次第に決定論に靡き始めている。『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好よい、と云われても実はメリイ・ゴオ・ラウンドから飛び降りることは自由意志ではなく、既に決まっていたことなのではなかったのではないかと。つまり合理的な意思決定とか、失敗などそもそも存在せず、この世には結果としてのただ一つの現実があるのみではないかと。
お君さんが葱を買うことは決まっていて、それ以外の現実などあり得なかったのではないかと。運命とは認知バイアスではなく、非決定論こそ根拠のない妄想ではないかと。
どういうことかと云えば今、近代文学1.0はまさにこの私一人の為にやり残されていたように思うのだ。私の為に顔出しパネルと文豪飯に留まり、岩波書店の漱石全集の注解でさえ、淀見軒のライスカレーにアールヌーボの説明するにとどめていてくれたのではないかと。
そうでなければ、大学の名誉教授クラスの人たちがまるで自分たちには夏目漱石作品がまるで分かりませんと云うような書き方をしている現実がおかしい。しかし現実がおかしいなどと云ってみても何も始まらない。現実を否定しても何の意味もない。
芥川にしてもこんな有様。
谷崎潤一郎の天皇批判に誰も気が付いていなかった。これはおそらくこの三人の文豪だけの運命ではなかろう。しかし和田の演説を藤井が気楽そうにぐっすり眠こんでいて聴いていないように、現にこうして私が書いている文字列も誰にも読まれることはない。
いくらおかしくてもこれは現実なのだ。
note民はぐっすり眠こむ代わりに、死んだ感情で通り過ぎるだけだ。メリイ・ゴオ・ラウンドから飛び降りるどころか、自分がメリイ・ゴオ・ラウンドに乗っていることにすら気が付かない。
無料ならば天丼は大盛にする。
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