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岩波書店・漱石全集注釈を校正する12 淀見軒はアールデコ
岩波書店『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』注解に、それぞれ「淀見軒」「ライスカレー」「ヌーボ式」の説明がある。
淀見軒 本郷四丁目二十八番地(現、文京区本郷四丁目一番地十号)にあった西洋料理屋。
この注解には嘘はなかろう。
ライスカレー 明治三十年代後半から盛んに食べられるようになり、和洋折衷料理の代表的なものとして普及していた。明治三十五(一九〇二)年には値段も五、六銭となった。ちなみに蕎麦(もり、かけ)は二銭程度。
ここで注解は作品を離れ、「一般名詞としてのライスカレー」の説明となってしまっている。このことが作品解釈上の大きな問題を生じさせることになる。本来註釈すべきはあくまで淀見軒のライスカレーである。
淀見軒は戸上由松の経営する女給を置かぬ硬派な西洋料理屋として学生らに人気があった。一部ではミルクホールとも認識されていた。店先では果物、缶詰、西洋菓子も売られていた。ヲブスト、ヲフストとも呼ばれていた。淀見軒のライスカレーは十銭、ビフテキが十二銭である。後に谷崎潤一郎はこの店について『あつもの』で「安いまづい洋食」と書いている。
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問題はその次だ。
ヌーボ式 アール・ヌーボー art nouveau(フランス語で「新芸術」の意)の様式。十九世紀末にベルギー・フランスで興り、ドイツ・オーストリアに普及した建築・工芸の新様式。植物の枝や蔓を連想させる曲線に特色がある。
これも作品を離れて単に「ヌーボ式」の説明になってしまっている。読者に余計な「解釈」を与えまいという配慮かとは思うが、「ちなみに淀見軒の建物はアール・デコ様式である」と明記すべきであろう。
つまり……
①趣味品性の備わった学生と交際する予定だったが
②ポンチ絵をかいていた与次郎に淀見軒につれていかれてライスカレーを食べる。
③与次郎は淀見軒をヌーボー式だと三四郎に教えた。(実はアール・デコ様式)
④与次郎はイマヌエル・カントとジョージ・バークリーの思想をあべこべに聞き取っている。(「カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」とあるが、超絶を外せば普通は逆に定義される。)
⑤与次郎はよし子と美禰子の結婚相手が同じ人らしいと三四郎に伝える。
⑥与次郎は別の男子学生にもいきなり淀見軒のライスカレーを御馳走する。与次郎は硬派なのかと思えば、女がいた。
……こうした佐々木与次郎の勘違いしやすい性質やどたばた喜劇の要素がこの「淀見軒」「ライスカレー」「ヌーボ式」から始まっていることを見逃しては到底『三四郎』を読んだとは言えないのではなかろうか。
いつかこの記事の内容が岩波書店の編集者に届き、全集に修正が加えられることを期待する。また必ずそうでなければならないと確信している。これは夏目漱石作品を読んだといえる人間の果たすべき義務なのだ。
[余談]
いつも同じところをうろうろしている。文学作品を読むとはどういうことか。正確に読む、正しく読むとはどういうことかと。言葉の意味は辞書だけで調べられるものではない。
いわば書き手の合図のようなものをキャッチできなくては駄目なのではないかと思う。
芥川の『葱』のお君さんの渾名「通俗小説」はいかにも唐突だなと感じなければ、『葱』という作品を読んだことにはならない。そこで「通俗小説」の解説を始めても意味には辿り着けないだろう。
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