「塔」の見物は一度に限る
何気ない書き出しで、ここに何かしかけられていると気が付く人もあるまいが夏目漱石全集を読み返すと、なにかわざわざそう書いていることが解る。
このさりげなさが漱石の仕掛けだろう。ふりを丁寧に、落ちはさらりと、それが江戸っ子の粋というところか。
蜘蛛手十字
岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解に、
……とある。蜘蛛手とは縦横ではなく蜘蛛の足のように胴体から四方八方に伸びているようすの事である。鉄道網、交通網は大抵縦横では繋がらない。もう少し絡み合っていることを示している。
宿世の夢の焼点
岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解に、
……とある。ここは「宿世」を前世といわず暈したところであろうか。「焼点」は焦点と同じ意味で次第に焦点が多く使われるようになったもの、ここは稲妻のイメージから選ばれた表記だろう。『倫敦塔』の基調である因縁と現実との交錯がこの表現の内に圧搾されているところなので、むしろ宿世の夢は過世の夢、因縁の意味を強調したい。
龕中
岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解に、
……とある。ここでは実物ではなく観念の龕であり、そう細かく読まなくともよいが厨子では戸張が裂けても扉を開かねば中は見えない。壁龕に帳ではなく「戸張」がかかるかどうか、曖昧である。「戸張」とある以上は厨子でよいとも思われ、倫敦ならば壁龕の方が相応しいとも思えるところ。
一目散に塔門まで馳せ着けた
ここはこの『倫敦塔』がただの紀行文ではないという正体を現す場面。このあと無い句を妄想し「余はこの時すでに常態を失っている」とある。
冷飯草履
岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解に、
……とある。
竹皮のものもあったようだ。
冷飯は当て字とする説もあり。ひもやめし草履?
本郷区独特の呼び名?
いずれにせよ、貧乏人の象徴ではあろう。
[付記]
『民間服飾誌 履物篇』宮本勢助 著雄山閣 1933年は草履に詳しい。冷飯草履はそのものとしてもよく使われる言葉だが、古い日本、貧乏、粗末なものの象徴としての用法が多い。
漱石の語彙としてはやたら「ぴちやぴちゃ鳴る」「ぴしやぴしや云はして」「ぴしやりぴしやりと草履の尻の鳴る」(『坑夫』)と音が粘っこく、藁だけで編んだものにしてはどうかとも思った。裏に革でも張ったかと思っていたが、これは昔の舗装されていない道路で泥と足裏の脂を吸った草履の底が固められてもいたのだろうか。
語源に関しては猶精査の必要がある。