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夏目漱石の『こころ』をどう読むか478 Kに友人はいたか、いないか?

Kに友人はいたか、いないか?


 全ての漱石論者が誤読を繰り返す理由の一つに、夏目漱石の書き方が「はっきりしていない」「書かれている事実が明瞭ではない」ということが確かにある。

 例えば、この問題。本文を引用して設問したとして、正答率はいかほどだろうか?
 いやそもそも出題側で正解が用意できるだろうか?

 同様のことがこの「Kに友人はいたか、いないか」問題に関しても言える。どうしても作品の中の出来事の印象には濃淡ができてしまいがちで、記憶に残りやすいフレーズと、そうではないさらりとした説明の間で小さな矛盾が生じているからだ。
 この問題に関しては、

 この記事でも軽く触れている。この記事を読んだ前提で話を進めるとまず、大抵の人は、

・Kに友人は一人もいない

 と考えるであろうと思われる。

「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」
「そうです」

(夏目漱石『こころ』)

 まず先生の側からはKは「友達」である。しかし、

 その内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多をやるから誰だれか友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。

(夏目漱石『こころ』)

 このKの言葉の強烈さの前に、「Kに友人は一人もいない」という印象が強くなる。それでも穏健な人はここに「先生以外には」と付け加えたい気持が残るであろうが、先生に出し抜かれた結果、

 私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。

(夏目漱石『こころ』)

 たった一人になってしまったと見れば、ますます「孤独なK」という印象が強くなる。しかし本当によくよく読んでみると、「孤独なK」「友達なぞは一人もない」というKのセルフイメージが客観性を欠いていると読めなくもないのだ。

「Kの葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。
 私の答えは誰に対しても同じでした。私はただ彼の私宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚の新聞を出して私に見せました。私は歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKが父兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。私は何にもいわずに、その新聞を畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました。

(夏目漱石『こころ』)

 ここで「知り合い」と区別された「その友人の一人」が現れる。道で会えば挨拶する程度の間柄とは思えない。Kの葬式に参加し、Kの死因に興味を持ち、新聞を持ち歩き、二紙以上調べている。これはKの認識に関わらず、友達と呼んでいい人物なのではなかろうか。

 ここは先生の歌留多の際との認識にずれが生じているが、冠婚葬祭で初めて会う縁者というのはそう珍しくもないものだ。

 そう考えて行くと「Kに友人はいたか、いないか? 」問題の答えは、

・少なくとも二人はいた

 というものになり得るだろう。中には「私」や「先生」まで友達がいないと書いてしまう人までいるので、なかなか伝わりにくい話だと思うが、これが今のところの私の読みである。



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