夏目漱石の『こころ』をどう読むか478 Kに友人はいたか、いないか?
Kに友人はいたか、いないか?
全ての漱石論者が誤読を繰り返す理由の一つに、夏目漱石の書き方が「はっきりしていない」「書かれている事実が明瞭ではない」ということが確かにある。
例えば、この問題。本文を引用して設問したとして、正答率はいかほどだろうか?
いやそもそも出題側で正解が用意できるだろうか?
同様のことがこの「Kに友人はいたか、いないか」問題に関しても言える。どうしても作品の中の出来事の印象には濃淡ができてしまいがちで、記憶に残りやすいフレーズと、そうではないさらりとした説明の間で小さな矛盾が生じているからだ。
この問題に関しては、
この記事でも軽く触れている。この記事を読んだ前提で話を進めるとまず、大抵の人は、
・Kに友人は一人もいない
と考えるであろうと思われる。
まず先生の側からはKは「友達」である。しかし、
このKの言葉の強烈さの前に、「Kに友人は一人もいない」という印象が強くなる。それでも穏健な人はここに「先生以外には」と付け加えたい気持が残るであろうが、先生に出し抜かれた結果、
たった一人になってしまったと見れば、ますます「孤独なK」という印象が強くなる。しかし本当によくよく読んでみると、「孤独なK」「友達なぞは一人もない」というKのセルフイメージが客観性を欠いていると読めなくもないのだ。
ここで「知り合い」と区別された「その友人の一人」が現れる。道で会えば挨拶する程度の間柄とは思えない。Kの葬式に参加し、Kの死因に興味を持ち、新聞を持ち歩き、二紙以上調べている。これはKの認識に関わらず、友達と呼んでいい人物なのではなかろうか。
ここは先生の歌留多の際との認識にずれが生じているが、冠婚葬祭で初めて会う縁者というのはそう珍しくもないものだ。
そう考えて行くと「Kに友人はいたか、いないか? 」問題の答えは、
・少なくとも二人はいた
というものになり得るだろう。中には「私」や「先生」まで友達がいないと書いてしまう人までいるので、なかなか伝わりにくい話だと思うが、これが今のところの私の読みである。
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