夏目漱石の『こころ』をどう読むか⑫ 母を棄てる
母を棄てる
小説の感想文は色んな角度から書いてもいいともいます。大体の粗筋さえつかんでいれば、後は細かいところを論じてもいいと思います。今回は前回書き忘れたことを書きます。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」と頼まれているのに、「私」は死にそうな父親を放り出して東京に行きます。その後母親のことには触れられませんが、兄弟での間では何か頼りない会話がなされていました。
まだ職のない身分だから仕方ないとはいえ「私」には母親を引き取る気はなさそうです。兄の方もどうやら引き取りたくはなさそうです。こうして「棄てられそうな母」が描かれるのは漱石作品では初めての事ではないでしょうか。明示的ではないにせよ、「私」には母親を引き取った気配がありません。引き取ってはいないとは書かれませんが、引き取ったとも書かれません。曖昧ではありますが、少なくとも歓迎されている気配はありません。「私」もそうです。母に対する思いが希薄です。
兄は九州で忙しく働いているのでそれなりに稼いではいるのでしょうが「おれ」の兄も九州に行ったきり、「おれ」とは二度と会いませんね。この感覚、長兄・大助と嫂以外には愛情を示さない漱石自身と似ています。
漱石自身と似ています。ってそんないい加減な感想があったものですかね。でも似ているんです。エッセイや談話を見てもそうなんです。
これまで叔父が悪い人、とは言われてきましたが、よくよく考えてみると結構兄も曲者ですよね。それと『道草』を読んで思ったのですが、漱石の感覚は飽く迄次男なんですね。兄と弟の弟です。Kも「私」も次男。三四郎は何男なのか解りません。「おれ」、代助、二郎は次男。健三は三男のように書かれますが、漱石は五男です。どうも途中の兄弟を省きます。それは養子にやられ実家に戻り、復籍前に二人の兄を無くし、その時次男は既に別の家の養子に行っていたという複雑な家族関係が背景にあったからだと、「ざっくり」と言う事はできます。しかし「ざっくり」言われても困りますよね。
しかし実際漱石と母の関係はざっくりしたものです。母は金之助を生んだことを恥じ、早々に養子にやります。決めたのは父でしょうが、母もいい加減な感じです。漱石にとって実母はぼんやりしたものでした。
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