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本を読むということ⑧ 本当は作者と読者しかいないのに

 このnoteに参加していてひしひしと感じるのだが、たまに新着記事に「スキ」してくる人ほど文学を徹底的に軽んじている人はあるまい。文学を「月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限ってい」なければ、そのようなふるまいが可能だとは到底考えられない。彼らは自分の商売に誰かを巻き込みたくて必死なだけなのだが、それならばもっと別の良い方法があることに何故か気が付かない。もっと簡単に稼ぐだけなら稼げる。そんなことが目的ならnoteは時間の無駄だ。

 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限っていた。その上彼は理窟が大嫌いであった。右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 きわめてシンプルな話、どちらかを選ぶべきなのだろう。私はとりあえず文学について語ることにしよう。

 さて『彼岸過迄』が田川敬太郎の話でありながら、敬太郎が常に物語の外側に置かれている理由について、私は極めてシンプルな解釈を持っている。最初は漱石の決めつけは強引すぎて、『彼岸過迄』を田川敬太郎の冒険とくくるのはおかしな話だと思っていた。しかし田川敬太郎が徹底して聞き手に回り、これが田川敬太郎の冒険だと強弁されてみて、「話者」が同時に「読者」であり、松本に対する須永の手紙に対するように「読者」はそのまま田川敬太郎に重ねられることに気が付いた。

 さして高尚な話ではない。文学を「月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限ってい」なければ、その人は単なる読者に留まることはあるまい。こうして田川敬太郎のように馬鹿にされながら案外油断のならない読者がもう一人思い浮かぶ。

 代助はこんな場合になると何時でもこの青年を気の毒に思う。代助から見ると、この青年の頭は、牛の脳味噌で一杯詰っているとしか考えられないのである。話をすると、平民の通る大通りを半町位しか付いて来ない。たまに横町へでも曲ると、すぐ迷児になってしまう。論理の地盤を竪に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。彼の神経系に至っては猶更粗末である。あたかも荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助はこの青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さえある。それでいて彼は平気にのらくらしている。しかもこののらくらを以って、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に振舞たがる。その上頑強一点張りの肉体を笠に着て、却って主人の神経的な局所へ肉薄して来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払う租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となった報いに受ける不文の刑罰である。これ等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否、ある時はこれ等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さえある。門野にはそんな事はまるで分らない。(夏目漱石『それから』)

 漱石は一旦こうして代助をして門野の脳みそを見下げて見せる。そうしておきながら門野がなかなか油断のならない「読者」であることを匂わせる。

 茶の間を抜けようとする拍子に、
「どうも先生は旨いよ」と門野が婆さんに話していた。
「何が旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野は、
「やあ、もう御上りですか。早いですな」と答えた。この挨拶では、もう一遍、何が旨いんだと聞かれもしなくなったので、そのまま書斎へ帰って、椅子に腰を掛けて休息していた。(夏目漱石『それから』)

 代助の気が付かないところで、門野は代助を観察し、批評している。代助の自覚のないところを見抜いている。これは前にも書いたが、まだ何も言われないうちから事情を心配している。

 所へ門野が来て、御客さまですと知らせたなり、入口に立って、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であった。客は誰だと聞き返しもせずに手で支えたままの顔を、半分ばかり門野の方へ向き易かえた。その時客の足音が縁側にして、案内も待たずに兄の誠吾が這入って来た。
「やあ、此方へ」と席を勧めたのが代助にはようようであった。誠吾は席に着くや否や、扇子を出して、上布の襟を開く様に、風を送った。この暑さに脂肪が焼けて苦しいと見えて、荒い息遣をした。
「暑いな」と云った。(夏目漱石『それから』)

 代助はその前々日の夜から三千代の家の周りをうろついていた。そのことを知っている門野の驚いた様な顔は、三千代と代助の関係を察し、家との問題を心配したからであろう。これは殆ど「読者」そのままである。門野は代助が三千代を求めるロジックなどには辿り着いていない。ただ男女の関係と家のトラブルを疑うだけの素朴な読者である。代助は門野には「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と云う。その実本人の中では「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行ゆこうと決心した」と門野を裏切る。焦って赤がくるりくるりの結果だとして、問題は門野が代助の世界に入っていけないことだろう。門野は傍観者に留まるしかない。しかしこのように「驚ろいた様に代助を見た。」というような態度を見せることで、本物の読者に筋の運びを知らせている。

 敬太郎は『彼岸過迄』において他人の意識の二層目三層目に潜り込みながら、身体性を失っていく。それは二郎も「私」も同じだ。しかしこの極めて重要な問題は五十年ぐらい完全に無視されてきた。

 現代文Bの参考書を読むと、切り取られた部分で『こころ』の先生とKの心理が問われて、詳細な解説が行われる。「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされている、などという解釈の入り込む余地など一切ない。先生とKの愛と友情の物語として読み解かれ、財産や擬制家族、真砂町事件の駆け引きや噓つきのK、あるいはがめつすぎる先生や静の頭の上にとぐろを巻いていた黒い蛇には一切触れられない。このKの言葉を先生はどう受け止めたのか? という問いはあり得ても、このKの言葉を「私」はどう受け止めたのか? という問いが成立しない世界だ。

 では何故そのことに問題があるのかと言えば、これは実にシンプルな話で、この言葉の意味が解らないように教えていることになるからである。

 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。(夏目漱石『こころ』)

 もう何回となく書いているが、このロジックが解らなければ『こころ』を読んだとは言えない。なぜ先生が「人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人」なのか、そのことを最も解り難くしているのが現在の国語教育における話者の排除ではなかろうか。現代文Bにおいて「私」はどこにも存在しない。むしろ先生の手紙の中の「私」しか存在しないように勘違いしている人も少なくなかろう。それは話者の意識などどうでもよいと切り捨て、物語が誰を中心に展開するのかを重視する読み方ということになるのだが、少なくとも『彼岸過迄』『行人』『こころ』はそう読むべきではなかろう。Kの許しがなくては『こころ』の冒頭のすがすがしさは成立しない。先生の気持ちばかり読んでいても、「私」が先生を評価する理由には永遠に辿り着けないのだ。そのことにこの五十年ばかり批判すらなかった。Kの代わりに遺書を書かせるような国語の授業がまかり通っている。「話者」というもの位置づけが曖昧なまま放置されていた。

 村上春樹作品『クリーム』は女の子にピアノ・リサイタルに招かれながら、そんなものは開かれず、開かれる気配もなく、すっぽかされた挙句、お爺さんに「中心がいくつもある円」「外周のない円」「クリーム」を探すよう十八歳の「ぼく」が教えられる話、そしてそんな思い出をずっと後になって年下の誰かに話しているという少し手の込んだ設定になっている。

 読者に直接語らないで、一人の聞き手を想定すること。

 例えば『クリーム』においては、そのことそのものにはさして深い意味を見出さなくても良いと思う。どうみても落ちのない不思議な話に付き合わされる語り手と聞き手の関係をぼんやり思えばいい。しかしこの聞き手がさらに回想の形で語り始め、「クリーム」を見つけたと言い出せば話は別である。

 どう見ても『こころ』の話者は「クリーム」的なものを見つけてはいまいか?

 私の云っているのは「世にも奇妙な物語」をタモリのフィルター越しに観ろということではない。
 所詮この世には作者と読者しかいないのだ。話者など単なる登場人物に過ぎない。『こころ』における「私」を玉葱の茶色い皮のように剥いて捨ててしまっていた人は、スープの出汁に利用すると良い。

 それが本当に『こころ』を読むということなのだ。


二人のチンチンチャイナマン



タピオカという大滋養品は病人にはなはだよきものなるに、これを産出する植物の生の汁は人を殺す毒あるごとし。

と南方熊楠は書いている。(『南方熊楠』唐澤太輔著、中公新書、2015年)南方熊楠はタピオカを知っていた。当たり前か。しかしどうやって食べていたのだろう。黒蜜に黄な粉か? 生姜醤油か?

熊楠は数学と体育が苦手、あっちの方は両方いけるようで、どうもタチの気配がある。

一八九八年四月二十八日[木]朝羽蕃、前よりやる夢みる、ぬく。(『日記』二巻)

羽蕃とは羽山蕃次郎である。兄繁太郎とともに関係があったと言われる。前からとは器用なものだ。

それから「チンチンチャイナマン」とは漱石の『自転車日記』に出てくる言葉だが、熊楠も「チンチンチャイナマン」とからかわれたらしい。

これは一八九七年ミュージカル・コメディ『ザ・ゲイシャ』の中で歌われた歌のタイトルらしい。

熊楠のロンドン留学? は1892年から1900年8月にかけてのこと。9月1日には帰国の途についている。

夏目漱石のロンドン留学は1900年9月10日に出立、すれ違いである。

熊楠が先輩「チンチンチャイナマン」、漱石が後輩「チンチンチャイナマン」である。

この二人が出会っていたらとはよく言われることながら、「チンチンチャイナマン」一号二号として活躍したことは疑いようもない。




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