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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する71 夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑦  箆棒め、剣突を喰らった一夜半日の画

箆棒め

 なぜ飯場と云うんだか分らない。焚き出しをするから、そう云う名をつけたものかも知れない。自分はその後飯場の意味をある坑夫に尋ねて、箆棒め、飯場たあ飯場でえ、何を云ってるんでえ、とひどく剣突を食った事がある。すべてこの社会に通用する術語は、シキでも飯場でもジャンボーでも、みんな偶然に成立して、偶然に通用しているんだから、滅多に意味なんか聞くと、すぐ怒られる。意味なんか聞く閑もなし、答える閑もなし、調べるのは大馬鹿となってるんだから至極簡単でかつ全く実際的なものである。 

(夏目漱石『坑夫』)

 この「箆棒め」に岩波はこう注解をつける。

箆棒め  ばか、あほうといった、男を罵る江戸言葉。

(『定本漱石全集 第五巻』岩波書店 2017年)

 

 三点ばかり引っかかる。

 まず「箆棒め」には「ばか、あほう」ほどの強い意味はないのではないか。「こんちくしょう」「てやんでい」のように話し言葉の中でリズムを生む口癖のようなもので、否定語には間違いないが、時に明確な対象を欠いているような使われ方もある。

虎公 上編 佐藤紅緑 著菊屋出版部 1916年


 また必ずしも男にばかり向けて使われた言葉ではない。さらに、江戸言葉とするのはいかがなものか。「箆棒めい」に「べらんめい」のルビがあることを確認してもらいたい。この「箆棒めい」は江戸言葉で、「箆棒め」自体はこのように、


清水次郎長 第2 神田伯山 口演改善社 1925年



侠客尾張大八 京山小円 口演||山田都一郎 速記島之内同盟館 1908年

 茨城県、静岡県、愛知県でも使われていたようだ。

剣突を食った

 岩波はこれをやはり江戸言葉とする。主要な国語辞典にその趣旨の文言はない。


五大洲探険記 第5巻 欧洲無銭旅行 中村直吉, 押川春浪 編博文館 1912年

  これもどうも江戸言葉とまでは限定されないようだ。

一夜半日の画

 振り返って思い出すほどの過去は、みんな夢で、その夢らしいところに追懐の趣があるんだから、過去の事実それ自身にどこかぼんやりした、曖昧な点がないとこの夢幻の趣を助ける事が出来ない。したがって十分に発展して来て因果の予期を満足させる事柄よりも、この赤毛布流に、頭も尻も秘密の中に流れ込んでただ途中だけが眼の前に浮んでくる一夜半日の画の方が面白い。小説になりそうで、まるで小説にならないところが、世間臭くなくって好い心持だ。

(夏目漱石『坑夫』)

 岩波はこの「一夜半日の画」に対して、こう注解をつける。

一夜半日の画   ひと晩だけあるいは一日の半分だけを切り取った、筋に起承転結のない絵のような小説をたとえたもの。

(『定本漱石全集 第五巻』岩波書店 2017年)

 あるいはで分割された「ひと晩だけ」と「一日の半分だけ」は本来分けられるべきものであったのだろうか。ここはまだ二晩にはならない『坑夫』のこれまでの経過を「一夜半日の画」と振り返ったところではあるまいか。


[余談]

 Chat GPTが凄いことになっている。要するに後は使い方次第というところ。勿論こうして日本語の細かいところをやっている人間からするとまだまだこれからということになるのだろうけれど、平べったい物書きにはもう居場所はないのかも。


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