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夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑤ ディアゴスティーニ方式の現在

今の朋友から評すると

 不思議な事にこれほど神妙にあてられたものが、今はけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われている。その時御世話になった長蔵さんから見たら、定めし増長した野郎だと思う事だろう。がまた今の朋友から評すると、昔は気の毒だったと云ってくれるかも知れない。増長したにしても気の毒だったにしても構わない。昔は神妙で今は横着なのが天然自然の状態である。

(夏目漱石『坑夫』)

 どういう了見か、『坑夫』の主人公は書かれている現在と距離を取りたがる。この引用部分の「今は」の今は書いている現在であることが「今の朋友」で解る。この当時十九歳であった主人公は、その後台湾沖で難船して死にかけ、今ではけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われていて、なおかつ朋友がいる。孤独ではない。
 漱石はこのようにして書き手の現在を少しずつ明かして行こうという魂胆のようである。しかしネタ元となった青年の話とその現在を書いている訳ではなく、「台湾沖で難船して死にかけ、今ではけろりとして、一切神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われていて、なおかつ朋友がいる」という設定は漱石のオリジナルな想像であろう。
 そのようにして見せようとしているものがなんなのか、まだ判然とはしない。それでも妻子はあるかと気になるところだ。
 丁度酒鬼薔薇君、つまり元少年Aに妻子がいるとかいないとかのうわさが出たように、こんな書き方をされてしまうと読者は主人公の現在が気になるものだ。

至大なる賚を有っている

 ――自分の心の始終動いているのも知らずに、動かないもんだ、変らないもんだ、変っちゃ大変だ、罪悪だなどとくよくよ思って、年を取ったら――ただ学問をして、月給をもらって、平和な家庭と、尋常な友達に満足して、内省の工夫を必要と感ずるに至らなかったら、また内省ができるほどの心機転換の活作用に見参しなかったならば――あらゆる苦痛と、あらゆる窮迫と、あらゆる流転と、あらゆる漂泊と、困憊と、懊悩と、得喪と、利害とより得たこの経験と、最後にこの経験をもっとも公明に解剖して、解剖したる一々を、一々に批判し去る能力がなかったなら――ありがたい事に自分はこの至大なる賚を有っている、――すべてこれらがなかったならば、自分はこんな思い切った事を云やしない。

(夏目漱石『坑夫』)

 おそらく漱石が他人の経験談をネタに『坑夫』という小説を書いてみようとした理由と、書く工夫にはこの内省、つまり解剖と批判があったというわけだ。ネタの提供者が差し出したのは経験談である。漱石が創作しているのは内省である。昔の自分と現在の自分を拵えて、距離を取り、違いを作ったのは内省の為だったのだ。
 内省小説。

 確かに『坑夫』は登場人物の人物心理を作者が勝手に解釈するのではなく、紛れもない本人が自分自身の過去と向き合うというていで書かれており、どこかプルーストの『失われた時を求めて』のような構図が見えなくもない。

 そして「坑夫になり損ねる」という単なる失敗談を漱石が還元的感化を与えうる作品に仕立て上げようとしていることが分かる。漂泊と、困憊と、懊悩と、得喪と、利害とより得た経験だけでは還元的感化はないのだ。至大なる賚は内省の能力なのだ。

今のような身分にいるからは

 自分は当時種々の状況で、万事長蔵さんの云う通りはいはい云っていたし、またそのはいはいを自然と思いもするが、その代り、今のような身分にいるからは、たとい百の長蔵さんが、七日七晩引っ張りつづけに引っ張ったってちょっとも動きゃしない。

(夏目漱石『坑夫』)

 ここも書いている現在の主人公が出ている場面だ。「今のような身分」とまで言うからには、それなりの身分に違いない。少なくとも金に困って無理に働かなくてはならないという立場ではなさそうだ。しかしそう推測させるのみでなかなかはっきりさせない。

 これまで近代文学1.0において、このように徐々に明らかにされる現在というレトリックにそれなりの名前が与えられていただろうか。

 いや、それは全ての物語、全ての小説が「だんだんわかるもの」だと言われてしまうかもしれないが、私はこれをディアゴスティーニ方式、あるいは月賦法と仮に名付けておきたい。
 というのも、ここまで小出しにちょくちょくやってくるケースはきわめてまれであると思うからだ。
 一言でいうと「小出しにしすぎ」である。
 こう言っては何だがこれがディアゴスティーニ方式の構造を持つことにも気が付かず「読破」なんて言っている人もいないとも限らないので、徐々に明らかにされる現在というところは強調しておきたい。

没自我の坑夫行

 それでいて身体は蒟蒻のように疲れ切ってる。平生いつもなら泊りたい、泊りたいですべての内臓が張切れそうになるはずだのに、没自我の坑夫行き、すなわち自滅の前座としての堕落と諦めをつけた上の疲労だから、いくら身体に泊る必要があっても、身体の方から魂へ宛てて宿泊の件を請求していなかった。

(夏目漱石『坑夫』)

 岩波はここにも注を付けない。「没自我」の項目は主要な国語辞典にはなく、ネットで検索するとフッサールの没自我的受動が出て來る。

之を要するに巢林子は、沙翁がさなりと言はるゝ如く、沒自我の詩人にあらずして、假然たる一個の厭世詩人なり。

樗牛全集 第2巻 文芸及史伝 上巻 高山樗牛 著||斎藤信策 編博文館 1906年


而してニーチェはこの自由の發展を要求する人類の元始的本能、元始的衝動をば他面に於て『殘虐』と名づけたり、これ個性の無條件に發展し活動し擴充するの意にして自己の亡失沒自我の愛乃至卑怯の正反對なり。


芸術と人生 斎藤信策 著昭文堂 1907年

 当然意味としては自我に没するのではなく、自我を没するということになる。

 吾人は、明治十年代に於ける、極端なる沒自我的歐化思想の反動として起りたる、思想界の著大なる現象を求めて明治二十一年に組織せられたる、三宅雄次郞(雪嶺)、井上圓了、志賀重昂(矧川)、棚橋一郞等の政教社に注目……

明治青年思想変遷史 伊藤銀月 著前川文栄閣 1912年

 歴史的には西南の役以降の帝国主義国家の発展を受動する態度を批判する言葉であっただろうか。

こちらの横に茨城県が長く伸びている

 この時はあまり好い心持ではなかった。それがため、居眠りもしばらく見合せるような気になって、部屋中を見廻すと、向うの隅に小僧が倒れている。こちらの横に茨城県が長く伸びている。毛布の下から大きな足が見える。

(夏目漱石『坑夫』)

 ここはまたウイキペディアの編集人が間違うといけないので……というわけではなく、面白いのでメモしておく。夏目漱石作品ではしばしば提喩が冗談となって現れるが、この「茨城県」はその見事な成功例ではなかろうか。何かすこんと突き抜けた感じがある。提喩が冗談となって現れることで、こんな効果があるのかと感心するところだ。
 これはなかなか真似は出来ない。

「おい」と同じような返事をして

「おい、おい」
と揺り始めたんで、やむを得ず、毛布の方でも「おい」と同じような返事をして、中途半端に立ち上った。

(夏目漱石『坑夫』)

 この「おい」という返事は『三四郎』や『こころ』にも出て來る。

 この習慣は今はほぼなくなり、イントネーションも解らない。同じでも違っていても成立しそうだ。空手の「押忍」的な使い方なのではないかと考えられる。しかしこれは戦後の比較的現在に近い時代のジャーゴンなので何も確かではない。


力足を二三度踏んだ

「熊さん、じゃ行ってくる。いろいろ御世話様」
と軽く力足を二三度踏んだ。

(夏目漱石『坑夫』)

 岩波はここにも注を付けない。主要な国語辞典にその説明はあるも、日常の所作としてはほぼ見られなくなっているものなので何か説明が欲しいところ。

ちから‐あし【力足】
①力を入れた足。また、足に力をこめること。平家物語9「―を踏んでつい立ちあがり」
②相撲の四股。

広辞苑

 用例としては、饗庭篁村の『良夜』、尾崎紅葉の『鬼桃太郎』、樋口一葉の『たけくらべ』、豊島与志雄の『幻の彼方』、後は上田敏、尾崎士郎、岡本かの子くらいまでで、戦後にはほぼ消えた表現ではなかろうか。(一例は見つかった。)

 で、実際この場面、ニ三度踏まれているので軽い四股だと見ていいのではなかろうか。今、そんなサラリーマンはいまい。

また雲が恋しくならんとも限らない

 仕方がないが、こう云う自分が、時と場合によれば、翌が日にも、また雲が恋しくならんとも限らない。それを思うと何だか変だ。吾が身で吾が身が保証出来ないような、また吾が身が吾が身でないような気持がする。

(夏目漱石『坑夫』)

 主人公は「今のような身分」になってなお「翌が日にも、また雲が恋しくならんとも限らない」と人間の曖昧さ、不確かさを主張する。ともかくここは徹底するようだ。いかなる身分も仮の姿に過ぎず、勝ち取るものなどなにもないということか。

 そしてまた勝手に偉くなっていないということも分かる。勝手に偉くなっている人は沢山いるが、その偉さを自分で保証できる人はそうはいまい。


[余談]

 何かやらかして東京を逃げ出した十九歳には到底語り得ぬことを語る『坑夫』の主人公は、今何歳なのだろうか?

 そう考えながら読み進めると二人の主人公が一つの体でずんずん移動して会話しているような印象になる。この感覚は他の作品にはない。
 他の作品では書いている現在の露出はもっと控えめで、『行人』など殆ど気が付かないくらいだ。

 そう珍しくもない回顧という形式と見做してしまうと見えなくなるが、やはりこのディアゴスティーニ方式はかなり珍しい書き方なのではなかろうか。



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