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夏目漱石の『坑夫』をどう読むか⑨ これだから自殺などはできないはずである

いまだにやらずにいる

 骨を折って失敗するのは愚だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。ただ困るのは演舌と文章である。あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。

(夏目漱石『坑夫』)

 また「書いている現在」が顔を出したところ。今回はやや具体性があるが、むしろ正体が掴めない。

 演説家志望のようでもあり、小説家志望のようでもあり、演説経験者のようであり、まだ何も書いていないようでもある。それでいてそれなりの身分になっているのだからなんとも怪しい。どうもつじつまが合わない。残念ながら、ここは漱石が明確な「書いている現在」を決めかねているように見えるところだ。

艶子さんと澄江さんに見せたらば

 いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑のなかに屈んでるところを、艶子さんと澄江さんに見せたらばと云う問題であった。気の毒がるだろうか、泣くだろうか、それともあさましいと云って愛想を尽かすだろうかと疑って見たが、これは難なく気の毒がって、泣くに違ないと結論してしまった。それで一目くらいはこの姿を二人に見せたいような気がした。それから昨夜囲炉裏の傍でさんざん馬鹿にされた事を思い出して、あの有様を二人に見せたらばと考えた。ところが今度は正反対で、二人共傍にいてくれないで仕合せだと思った。もし見られたらと想像して眼前に、意気地のない、大いに苛められている自分の風体と、ハイカラの女を二人描き出したら、はなはだ気恥ずかしくなって腋の下から汗が出そうになった。

(夏目漱石『坑夫』)

 この「艶子さんと澄江さん」は作中に六度ずつ出て來る名前である。ここでは二人ともハイカラ女であることが分かる。そしてこの物語の前に、二股という不始末があったことが予想できる。『三四郎』でも三四郎がよし子と美禰子の二股のようなことをやり、『それから』でも代助が嫂と三代子の二股のようなことをやり、『明暗』でも津田がお延と清子の二股のようなことをやったのが思い出され、『虞美人草』では小野が小夜子と藤尾の二股のようなことをやったのが思い出される。
   ついでに『行人』三沢の調子のいいところが思い出される。そうすると、いや、三四郎はお光さんと名古屋の女と四又ではないかという気もして来る。
 つまり三四郎にふさわしいあだ名は「芥川龍之介」である。


結婚前の男は

 自分の器量を下げるところは、誰にも隠したいが、ことに女には隠したい。女は自分を頼るほどの弱いものだから、頼られるだけに、自分は器量のある男だと云う証拠をどこまでも見せたいものと思われる。結婚前の男はことにこの感じが深いようだ。

(夏目漱石『坑夫』)

 この「結婚前の男は」という言い方はいかにも既婚者の言い分である。しかしあまりにもさらりと書かれているので確証に欠ける。「女は自分を頼るほどの弱いものだから」という前提も、この書かれている現在の時点での経験値なのかどうなのか判然としない。つまり「艶子さんと澄江さん」に頼られたというだけなのか、それとももっといろんな体験や観察があるのか、そこは解らない。フィンランドパン、ハパンルイスヴォッカにライ麦が何パーセント使われているのかということも解らない。穀物原料中 ライ麦80%だ。

学理上あり得るものか

 自分は梯子の途中で、首を横へ出して、下を覗いた。よせば善かったが、つい覗いた。すると急にぐらぐらと頭が廻って、かたく握った手がゆるんで来た。これは死ぬかも知れない。死んじゃ大変だと、噛かじりついたなり、いきなり眼を閉った。石鹸球の大きなのが、ぐるぐる散らついてるうちに、初さんが降りて行く。本当を云うと、下を覗いた時にこそ、初さんの姿が見えれば見えるんで、ねぶった眼の前に湧いて出る石鹸球の中に、初さんがいる訳がない。しかし現にいる。そうして降りて行く。いかにも不思議であった。今考えると、目舞のする前に、ちらりと初さんを見たに違ないんだが、ぐらぐらと咄癡て、死ぬ方が怖くなったもんだから、初さんの影は網膜に映じたなり忘れちまったのが、段木に噛りついて眼を閉るや否や生き返ったんだろう。ただしそう云う事が学理上あり得るものか、どうか知らない。その当時は夢中である。

(夏目漱石『坑夫』)

 なかなか難しい表現である。そもそもこれは漱石の経験でもないわけなので、観念に空想を重ねて「ない」経験を創造しながら、通常「ない」錯覚を捏造している訳だから、それが逆にリアルだとか評してもしょうがない。ここは無性格論から一歩進めて、感覚が理屈に合わないという不確かさを発展させたとみるべきであろうか。
 ついしらじらしくなりそうなところを、何とか器用に言葉をつないでいるのは、現在法(Prosopopaeia)の使い手たる漱石ならではといったところか。


下読みをする書物の内容は忘れても

 ちょうど試験の前の晩徹夜をして、疲労の結果、うっとりして急に眼が覚めると、また五六頁は読めると同じ具合だと思う。こう云う勉強に限って、何を読んだか分らない癖に、とにかく読む事は読み通すものだが、それと同じく自分もたしかに降りたとは断言しにくいが、何しろ降りた事はたしかである。下読みをする書物の内容は忘れても、頁の数は覚えているごとく、梯子段の数だけは明かに記憶していた。ちょうど十五あった。

(夏目漱石『坑夫』)

 これは主人公の未来か過去かと真面目腐ってもつまらない。真面目な学生なら誰でも試験前に徹夜くらいは経験があるかもしれない。(私はない。)

 しかし予習をする学生はいても「下読み」をするのは教師くらいなものである。つまりここは何か分かりやすい例を示そうとして、つい教師たる漱石が出てしまったところであろう。
 御愛嬌というところか。

神――神は大嫌いだ

 続いている証拠には、眼を開いて、身の周囲を見た時に、「死ぬぞ……」と云う声が、まだ耳に残っていた。たしかに残っていた。自分は声だの耳だのと云う字を使うが、ほかには形容しようがないからである。形容どころではない、実際に「死ぬぞ……」と注意してくれた人間があったとしきゃ受け取れなかった。けれども、人間は無論いるはずはなし。と云って、神――神は大嫌いだ。やっぱり自分が自分の心に、あわてて思い浮べたまでであろうが、それほど人間が死ぬのを苦に病んでいようとは夢にも思い浮べなかった。これだから自殺などはできないはずである。

(夏目漱石『坑夫』)

 神を信じている人と無神論者の間で「神」の定義が一致するわけもないが、ここに嫌神論者が現れた。ここは言いきりで補足説明がない。漱石の古い日記のようなものを読むとキリスト教的絶対神や、人神というものに否定的であることが分かる。ここはそうした漱石自身の思想が「そもそもそういう考え方が嫌い」という意味で現れたところであろうか。
 どうも漱石は『倫敦塔』などのある意味オカルトチックな作品を書きながら、いずれ科学的に証明可能なものとそうでないものを分けて考えていたような節がある。「副意識」や「テレパシー」、「多元宇宙」などは真面目に考えていたようだが、そういうものとキリスト教的絶対神は別物であったらしい。

 漱石は、

 しかし、火山の爆発だけは、今にもう少し火山に関する研究が進んだら爆発の型と等級の分類ができて、きょうのはA型第三級とかきのうのはB型第五級とかいう記載ができるようになる見込みがある。
 S型三六号の心中やP型二四七号の人殺しが新聞で報ぜられる時代も来ないとは限らないが、その時代における「文学」がどんなものになるであろうかを想像することは困難である。
 少なくも現代の雑誌の「創作欄」を飾っているようなあたまの粗雑さを成立条件とする種類の文学はなくなるかもしれないという気がする。

(寺田寅彦『小爆発二件』)

 こんな寺田寅彦の批判に耐えうる程度には理智的である。それにしても寅彦、いってくれるじゃないの。

 

これだから自殺などはできないはずである


 何か一つ二つ原因があるとすれば、もっともよく売れた『こころ』で先生が自殺を選び、代表作となる『吾輩は猫である』の結末が吾輩の死であることから、近代文学1.0の世界ではいかにももっともらしく「夏目漱石の自殺願望が無意識に現れている」といったような戯言が繰り返されてきた。
 それは違うと何度も書いて来た。

 漱石は人生は自殺するほど価値のあるものではないと考えており、『こころ』の先生の自殺は、漱石自身の自殺願望の表れではない。この『坑夫』という作品では藤村操の死が揶揄われていて、そこには明らかに毒がある。『坑夫』の主人公は人間に関して、その心の動きに関して深く、理智的に考えて、なお生きることを選ぶ「反・藤村操」的若者なのだ。それは勿論漱石自身の自己投影というわけでもなかろうが、いささか厳しい死者へのむち打ち、先生としての指導が含まれることをことを否めない。


[余談]

 失われた妻を探して旅に出る男の物語なんか書いてたっけ?

 これがマス・イメージ?

 切りつけ事件?


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