見出し画像

岩波書店・漱石全集注釈を校正する70 断々乎として故障を云いやしない、靴のまま飛び上がり者

今日は例に似ず大いに断々乎としているね

「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆みんなが病気にするのは、皆の方が間違っているんです」

(夏目漱石『虞美人草』)

 主要な国語辞典に「断々乎」の項目はない。

此理を考へずに歐洲出兵論を爲す抔とは△突飛にも程こそあれ、吾人は斷々乎として之に反對を表せざるを得の聞けば此運動に對しては有識者間の憤慨一通りで無いとの事である。

対支問題意見交換会演説筆記 国民外交同盟会 1914年

今日の政治家にして、又は國民を擧げてこの事に反對し、又は信ずるところを斷々乎として言及し執筆する人に、左樣な心掛けのある人が何人あらうか。居つて欲しい、けれどもない。

非常時に際して全國民に訴ふ 松岡洋右 述又新社 1934年

 意味は用例からしても文字面からしても「断乎」「断固」と同じものと考えられる。「乎」に「その状態であること」という程度の意味があるので、「岌々乎」といった表現もある。
 ちなみに戦前は盛んに用いられた「断々乎」は、青空文庫で検索すると坂口安吾が盛んに用いるほかはわずかに二例ほどしか使用例がない。敗戦により「断々乎」としたものが失われてしまった所為であろうか。


阿父っさんも故障を云やしない

「そこが分りさえすれば、後が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟がさらに解せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無しの甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父っさんも故障を云やしない。……」

(夏目漱石『虞美人草』)

 専ら機械が壊れることなどに用いられる「故障」には「異議」という意味もある。

こ‐しょう【故障】‥シヤウ
①事物の正常な働きがそこなわれること。さしさわり。さしつかえ。「車が―する」「肩の―で欠場する」
②故障1があると申し立てること。異議。源平盛衰記42「面々の―に、日既に暮れなんとす」。「―を入れる」

広辞苑

 用例が古いな。

ゆえ‐さわり【故障り】ユヱサハリ さしつかえ。さしさわり。宇津保物語貴宮「よろづの―をしのぎて」

 おおよそ複雑な機械などない時代から使われていた言葉なので、元々が「故障り」であり、その意味では使われなくなったようだ。「異議」の意味での使用例は、泉鏡花、谷崎潤一郎までといったところか。
 まず現代文では見られない表現なので注釈が欲しいところだ。

きた路は青麦の中から出る

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌が通る。高い土手は春に籠る緑を今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風のごとく弧形に折れて遥かに去る。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「青麦」の項目、大辞泉、新辞林、日本国語大辞典、学研国語大辞典、明鏡、新明解にはない。

あお‐むぎ【青麦】アヲ‥ (穂が出る前の)葉や茎の青々とした麦。〈[季]春〉

広辞苑

あお-むぎ アヲ― [3] 【青麦】 (穂が出る前の)葉や茎が青々と伸びた麦。[季]春。

大辞林

 よくぞ夏目漱石は穂が出る前に麦だと解ったものかと不思議になる。米のなる木はしらないのに。

なるほど宗近君は靴のままである

「うちの母に逢あったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
 なるほど宗近君は靴のままである。

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「靴のまま」にも岩波の注はない。電車に乗る時に靴を脱いだのは大昔の日本人で、明治も四十年経つと西洋間は靴で這入るものかと思ってみたが、どうもそんな感じがしない。

 若し靴のままで上つたならば、多くの場合美しい絨毯は泥にまみれてしまふであらう。
 さうして靴のままで上り得る應接室を備へた住宅は、西洋人との交際の多い人か何かでなくては、あまり見出されないであらうし、それは靴によつて應接室を汚さぬ人を迎へることを條件としなければならない。
 若し將來日本の都會の街路が一層清潔になり、乘物が愈々多く利用されるやうにならば、西洋人のみならず日本人でも靴のまま應接室へ上りこみ得るやうになるかも知れない。

朝暮抄 安倍能成 著岩波書店 1938年

 ホテル、海外を除けば、西洋間だから靴のまま、という事例がなかなか見つからない。ここは甲野家がかなり西洋化していたというふうに読むべきところか。

藤尾は駄目だ。飛び上りものだ

「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温い暖味があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂たる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」

(夏目漱石『虞美人草』)

 この「飛び上りもの」に岩波の注はなく、主要な国語辞典にも説明がない。インターネットでは、

1 低い地位から一足とびに出世した者。成り上がり者。
2 とっぴな言動をする者。跳ね上がり者。

goo

 といった解釈がなされている。なるほど「跳ね上がり者」らしき用例はいくつか見つかる。しかし「成り上がり者」の事例は見つからない。何処に根拠があるのか解らない情報だ。

揃えて渡す二本の竹箸

 小夜子は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼の皿に移すと、真中にある青い鳳凰の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁はだいぶ残っている。揃えて渡す二本の竹箸を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。

(夏目漱石『虞美人草』)

 ここで岩波は「出雲焼」に、

 出雲(島根県)から産する陶器の総称。

(『定本漱石全集 第四巻』岩波書店 2017年)

 と簡単な注を付ける。

 鳳凰のような繊細な絵付けは有田焼向けではないかと思うが、まあそれは良しとしよう。

 其出雲燒と誤認せられたる陶器の銘は高取燒に於けると同一の印章を押捺せるものにして、其作また熟達の美術家及び陶工の手になれることを示せり。其陶器には疑も無く古きものあり亦比較的新らしく見ゆるものあり。
 出出雲蜷川氏は其著に於て出雲燒に布志名、樂山及び志名或は權兵衞の三種ありとなし、他の大家は出雲と樂山とのみを擧げ、更に他の大家は出雲と布志名とを記載せり。
○出雲燒萬治年間萩の陶工權兵衞松江市に起す所なり、享和より文化に至り半六と稱する名手、松巨侯の命によりて古器を模作す。

日本陶磁器全書 第9巻 日本陶磁器協会 編日本陶磁器協会 1919年

 問題は竹箸だ。西洋間に靴で上がる時代に、ビスケットを箸で食べるのか、と思わせる記述だが、これはどうなのだろう。しかもよくよく読むと紅茶が先に出たとも書かれていない。ダンキングとまではいかないまでも、ここは飽くまで英国流ではなく、和式にこだわった場面か。それゆえの敢ての「和製のビスケット」で「出雲焼」なのかと思うところ。
 洋式な甲野家と和式な井上家の対比であろうか。

 それにしたって口の中がぱさぱさになるぞ。



[余談]

 注釈者が作中の「虚栄の市」の意味にも気が付かず、談話にある「爆発」の言葉を漏らしているのはいかがなものか。
 一応「毒薬を飲んで自殺した」という通俗な解釈を否定していて安心したが、まだまだ足りないところがたくさんある。
 しかしまあ一応『虞美人草』はこれで終わりにする。クライマックスにかけての宗近家の活躍ぶりはドラマだと勇ましい音楽があてられそうだ。

 ところで何で虞美人草なんだろう?

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?