2022年11月の記事一覧
『彼岸過迄』を読む 4375 漱石全集注釈を校正する② 赤い煉瓦は帝大なのか?
岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、
とある。件の『三四郎』の場面は、こう。
なるほど確かに赤煉瓦はここにもある。しかし、
帝大の可能性も考えた。しかしこの「洗い落したような空の裾に」という表現は遠景、視界の果てを指しており、「色づいた樹が」は銀杏並木ではなく上野の森をさしてはいないだろうか。そして「色づいた樹が、所々暖かく塊っている間から赤い煉瓦が見える」とすれば、それ
『彼岸過迄』を読む 4377 漱石全集注釈を校正する④ 小川町(おがわまち)で乗り換えてはいない
岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、
……とある。この場面は、
前回三田線を、
三田 ↔ 芝園橋 ↔ 櫻田本郷町 ↔ 日比谷 ↔ 神田橋 ↔ 小川町 ↔ 須田町 ↔ 松住町 ↔ 本郷三丁目
あるいは、
三田 ↔ 芝園橋 ↔ 櫻田本郷町 ↔ 日比谷 ↔ 神田橋 ↔ 小川町
↔ スルガ台下 ↔ 神保町 ↔ 水道橋 ↔ 春日町 ↔ 指ケ谷町
……と路線図を簡略化し
岩波書店・漱石全集注釈を校正する20 御維新前の静岡では土手三番町に市が栄えた
旧幕時代に無い者に碌な者はない
ここにも注はつかない。しかしこのようにちくちくと夏目漱石が明治政府や天皇を批判してきたことは事実で、そのことをあまりにも暈してきたおかげでこのような誤解も生じている。
ペストは繰り返し中国からもたらされた。江戸時代にペストはなかった。
ペストにも注が付かない。そうした事実も誤魔化してはいけない。
御維新前
ここにも注がない。『坊っちゃん』では「瓦
岩波書店・漱石全集注釈を校正する18 ぺらぺらの利己主義に牡蠣の如くうまい色
うまい色
岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、この箇所への指摘はない。ハガキは上が赤く、下が深緑で塗られている。その真ん中に一匹の動物がパステルで描かれている。この「うまい色」が村上春樹のベストセラーのような色調を指すのか、それともパステルで淡く描かれた吾輩の毛並みを指すのか判然としない。
ここは波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入の皮膚を有しているにもかかわらず、主人に
岩波書店・漱石全集注釈を校正する17 殺されかかった黒と士族気質、吾輩の昼飯と長い技術について
Ars longa, vita brevis
漱石全集には「技術は長く、人生は短し」という意味のラテン語の朱色のハンコのようなものが押されていて、それには当然註はつかない。何が何でも説明してしまうのは野暮だという趣旨だろう。しかし解らないものは解らないし、結果としてはそうした野暮を嫌ったところで夏目漱石作品は悉く誤読されてきたので、こんなことも書いてしまう。
百年の曲解って、お前は馬鹿だろ
岩波書店・漱石全集注釈を校正する 16 吾輩に名前がない理由
吾輩に名前がない理由
本文中「三毛」に続いて現れる「筋向の白君」にも注はつかない。しかし「三毛」に続いて「白」が現れ、やがて「己あ車屋の黒よ」と言われるに至って冒頭付近の「第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」という記述が思い出される。
ここまで一貫して吾輩はルッキズムである。私は何もそのことを批判しようというのではない。ただ猫の命名が、毛並みによって行われているこ
岩波書店・漱石全集注釈を校正する 15 グリマルキンは苦沙弥の脊中で全国の幸子さんをリスト化するのか?
グレー、マルキン
岩波書店『定本 漱石全集第一巻』付録に、グレー、マルキン氏の『吾輩は猫である』に関する評が収載されている。
そのグレー、マルキンの評の中にはなかなか高尚なカタカナ言葉が出て來る。
例えば「サチリスト」「スケプチツク」という言葉が出て來る。「サチリスト」は全国の幸子さんをリスト化する人ではなく、satirist、皮肉屋、風刺作家、「スケプチツク」はskeptic、懐疑論
岩波書店・漱石全集注釈を校正する 14 回顧の形式で笹原で泣いていてた吾輩は猫鍋になるか
夏目漱石はデジタルデバイドである。しかしそのことで作品の価値がいささかも損なわれることは無い。また夏目漱石作品は無謬性に欠ける。その点では間もなく書かれるGPT-4の小説には劣るかもしれない。しかし夏目漱石作品ですら誰にも理解されていない現在、つまり教師あり学習の教師が夏目漱石作品を読み切れていない限り、GPT-4の書く小説は夏目漱石作品を越えることはない。その教師の育成にはまだ相当な年月を要す
もっとみる岩波書店・漱石全集注釈を校正する12 淀見軒はアールデコ
岩波書店『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』注解に、それぞれ「淀見軒」「ライスカレー」「ヌーボ式」の説明がある。
この注解には嘘はなかろう。
ここで注解は作品を離れ、「一般名詞としてのライスカレー」の説明となってしまっている。このことが作品解釈上の大きな問題を生じさせることになる。本来註釈すべきはあくまで淀見軒のライスカレーである。
淀見軒は戸上由松の経営する女給を置かぬ硬派な西洋
岩波書店・漱石全集注釈を校正する11 明治初期は江戸時代
岩波書店『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』注解に、
……とある。一口に江戸時代の貨幣単位と云っても細かな変遷はあることながら、金貨で言えば「両、分、朱」銀貨で言えば「匁・分、朱」または「貫・匁・分・厘・毛」であり金貨に対する交換制度としての単位は「両・匁・貫」とすべきではあろうが、一般庶民の習慣となるとまた話が少しややこしい。
ここで用いられている「匹」は十文の意味で、千匹は二両二分に
身代わりに消されてしまった夏目漱石の「僕」
ついさっきすれ違ったサラリーマンが「身代わり弁当何だった?」とはっきり言っていたので、身代わり弁当のおかずのことで頭がいっぱいだ。身代わりと云えばそれはつまり「唐揚げ弁当」に対して「厚揚げ弁当」、「ハンバーグ弁当」に対して「つくね弁当」、「のり弁当」に対して「とろろこぶ弁当」になろうかとは思うが、白身魚のフライとちくわの磯部揚げに代わるおかずが思いつかないのだ。これをアジフライとかまぼこにしてし
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