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岩波書店・漱石全集注釈を校正する 14 回顧の形式で笹原で泣いていてた吾輩は猫鍋になるか

 夏目漱石はデジタルデバイドである。しかしそのことで作品の価値がいささかも損なわれることは無い。また夏目漱石作品は無謬性に欠ける。その点では間もなく書かれるGPT-4の小説には劣るかもしれない。しかし夏目漱石作品ですら誰にも理解されていない現在、つまり教師あり学習の教師が夏目漱石作品を読み切れていない限り、GPT-4の書く小説は夏目漱石作品を越えることはない。その教師の育成にはまだ相当な年月を要するだろう。そのことは先日から、このような形で示してきた。

 つまり淀見軒のライスカレーの意味が解らない限り、GPT-4はただのっぺりとしたとんちんかんな話を書くしかないのだ。

 しかし笑ってはいけない。これが近代文学1.0の現時点であることは疑い得ないのだ。

 圧倒的に多くの人が「ドライブ中に笹原に我輩だけ遺棄される」と理解していて、その間違いを指摘されるとただ不愉快になるだけで終わるのだ。この現実から私は始めるしかない。
 さて、「ドライブ中に笹原に我輩だけ遺棄される」という理解には、もう一つの問題が隠れている。岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解には「笹原」に関する注がない。

 では「笹原」とはなにか?

 笹原とは辞書的には「ささが一面にはえている所」とされている。こうした場所はたまに河原などにみられる。ただ笹原という言葉は圧倒的に地名・人名に用いられ、笹が生えている場所の多くは竹藪である。では何故竹藪に捨てられず笹原に捨てられたのか。

 ここに夏目漱石が養子に出された塩原の文字が濁らない、という情報を重ねてみると、「ササハラ」「シオハラ」の音の近似がなにがしかの意味を持ってくるような「感じ」がある。夏目漱石の小学校時代の英作文の署名は、K.ShioharaがK.Natsumeに代わって「ほお」と思う。このKの文字がやはり『こころ』のKを連想させる。文学作品を読むとは、言葉を文字通り正確に受け止めるだけでなく、アールヌーボと言っているが逆ではないかとか、賢そうに語っているが間違ってはいないかとか、そうした疑いを持つことでもあるのではなかろうか。

 あるいは曖昧なところに惑わされることでもあるのではなかろうか。例えば「吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである」という文字を読みながら「藁」という文字と「棗」という文字の近似を「なんとなく感じてしまう」ものである筈である。その「感じ」というものがないと「運転」をわざわざドライブと翻訳し、奇妙奇天烈な画が出来上がってしまう。「運転」とは掌に載せられたままどこかへ運ばれていく様子なのだろうなという塩梅が出来ないと、書かれていない自動車をどこかから持ってきてしまうことになる。

 繰り返すが、これは笑い事ではなく紛れもない近代文学1.0の現時点なのだ。

 あるいは注解は、読み方の指南までしなくてはならないのではないかと私は真剣に考えている。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 何千万人もの人が読んだはずのこの有名な冒頭に何の注が必要かと云えば、「泣いていた」「あとで聞くと」であろうか。

泣いていた 作中では蝉も鳴くが、吾輩も鳴いている。虎も鳴く。蟋蟀も鳴く。鐘も鳴る。小供が「なく」と開かれることもあるが、多く小供や赤ん坊が「泣」いている。冒頭の「泣いていた」は単に猫が鳴くのではなく「泣いていた」という心細さを表現する意か。

あとで聞くと 五章に「下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由よしはかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧を辱けのうする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった」とあるので、回顧の形式で書きはじめられた冒頭の現時点は五章より前にあることになる。つまり『吾輩は猫である』は回顧の形式から現在進行形の物語に移行していることになる。

 ……しかしこんなことを言い出せば、

猫鍋 作中「猫鍋に故障を挟しはさむ景色のない事である」とあるが、これは、

 ……こういうことではない、という注も必要であろうか。



[付記]

 少々細かいことを言えば、冒頭の現時点に関しては、正確には「主人の手あぶりの角を見ると春慶塗りの巻烟草入れと並んで越智東風君を紹介致候水島寒月という名刺があるので」と二章にあり、冒頭には「これが人間の飲む烟草というものである事はようやくこの頃知った」とあるので一章が回顧、二章からが現在進行形とみるべきであろうか。
 あまり細かく見なくとも一章の結びがまとめになっているので、そこで冒頭の現時点が閉じていると考えても良いと思う。










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