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岩波書店・漱石全集注釈を校正する17 殺されかかった黒と士族気質、吾輩の昼飯と長い技術について

Ars longa, vita brevis

 漱石全集には「技術は長く、人生は短し」という意味のラテン語の朱色のハンコのようなものが押されていて、それには当然註はつかない。何が何でも説明してしまうのは野暮だという趣旨だろう。しかし解らないものは解らないし、結果としてはそうした野暮を嫌ったところで夏目漱石作品は悉く誤読されてきたので、こんなことも書いてしまう。

 百年の曲解って、お前は馬鹿だろうという人は、まずは無料で公開されているこのnoteの記事を

 ここから試し読みしてもらいたい。現に「現代文B」の参考書は『こころ』を「愛と友情の物語」に収斂させ、「財産と擬制家族」という視点を捉えていない。
 なんにしても人生は短い。
 夏目漱石作品を曲解したままでも死ぬことはできる。ただ、そんな一人一人が夏目漱石という作家を殺したのだとも言える。

 近代文学2.0はある意味では鎮魂歌に過ぎない。さて、

 岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

弓 明治二十七年の俳句に「大弓やひらりひらりと梅の花」「矢響の只聞ゆなり梅の中」などの句が五句ある。また明治四十年七月十六日付虚子宛書簡には「私が弓ひいた垜がまだあるのを聞いて今昔の感に堪へん」とある。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 注は漱石に弓の句があること。昔弓の経験があるらしいことを簡潔にまとめている。この点少し冗長になるかもしれないが、人物評として「弓が巧み」であるという点を加えたい。

 裁判所の橫手を一丁ばかりも這入つて行くと、そこに木の門があつて、それを這入ると不規則な何十級かの石段があつて、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まつてゐる四間か五間の二階建の家があつた。
 私はそこでどんな風に案內を乞うたか、それは記憶に殘つて居らん。多分古道具屋の上さんが、「夏目さんは裏にゐらつしやるから、裏の方に行つて御覽なさい。」とでも言つたものであらう、私はその家の裏庭の方に出たのであつた。
 今言つた蓮池や松林がそこにあつて、その蓮池の手前の空地の所に射垜※があつて、そこに漱石氏は立つてゐた。(※弓場で、的をかけるために、土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土。)
 それは夏であつたのであらう、漱石氏の着てゐる衣物は白地の單衣であつたやうに思ふ。その單衣の片肌を脫いで、其下には薄いシヤツを着てゐた。さうして其左の手には弓を握つてゐた。漱石氏は振返つて私を見たので近づいて來意を通ずると、「あゝさうですか、一寸待つてください、今一本矢が殘つてゐるから、」とか何とか言つてその右の手にあつた矢を弓につがへて五六間先にある的をねらつて發矢と放つた。其時の姿勢から矢の當り具合など、美しく巧みなやうに私の眼に映つた。
 それから漱石氏は餘り厭味のない氣取つた態度て駈足をして其的のほとりに落ち散つてゐる矢を拾ひに行つて、それを拾つてもどつてから肌を入れて、「失敬しました。」と言つて私を其居間に導いた。
 私はその時どんな話をしたか記憶には殘つて居らぬ。たゞ艶々しく丸髷を結つた年增の上さんが出て來て茶を入れたことだけは記憶してる。
 此古道具屋の居たといふ家は私にも緣のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしてゐた私の長兄が留守番旁々其所に住まふやうになつて、私は歸省する度にいつもそこに寐泊りをした。
 卽ち漱石氏の假寓してゐた二階に私も寐泊りしたのであつた。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戾つて後、そこには藤野古白の老父君であつた麻野滝翁が久松家の用人として住まつてゐた。

[出典] 『漱石氏と私』高浜虚子、大正七年、書店アルス

 これは高浜虚子と漱石の二度目の出会いの記録である。いかにも士族然としたたたずまいであるが、戸籍上は漱石は平民であった。あるいは平民ながら士族気質があった。(正岡子規は士族である。)

 夏目君は學生時代に文科には珍らしい機械體操の名人であつた

[出典] 『文化境と自然境』(藤代素人 著文献書院 1922年)

 また漱石は器械体操の名人でもあり、運動神経には優れていた。泳ぎの名人芥川龍之介同様、膂力には恵まれていたのではなかろうか。

昼飯後

 全集ではここに注が付かない。猫は普通朝夕の二食である。昼飯を食わせてはならぬという法はないし、実際食わせていたのかもしれないが、だとしたら一応そこには何か注があってしかるべきではなかろうか。

茶の木の根を一本一本臭ぎながら

 茶の木の根は人間には良い香りだが、やや柑橘系に近い香りなので、果たして猫が好んで嗅ぐかどうか。お茶は猫に有害である。

偉大なる体格

 車屋の猫の説明。一般的に黒猫は小柄である。大型の黒猫は珍しい。ちなみに長毛の野良猫も稀で、私は一匹しか知らない。従って吾輩がペルシャ系の長毛で捨て猫なら、生存確率は極めて低かったのではないかと考えられる。


待合

 いや、待合ぐらい誰でも知っているだろうと、ここにも注がつかない。待合は範囲が広い。『それから』の「赤坂の待合」では代助は芸者と一晩過ごしたものと解される。しかし待合とは必ずしも芸者と一晩過ごす場所ではないし、食事をしたりもする。相手は芸者とは限らない。現代にはないものだけに何か説明が必要だろう。

車屋の黒は其後跛になつた

 一章のみで完結する予定であった『吾輩は猫である』の結びの手前では、急速に時間の経過を匂わせる。いよいよまとめにかかっているという感じがする。そこで冒頭のArs longa, vita brevisが効いてくる。なるほど、

 車屋の黒はその後跛になった。彼の光沢ある毛は漸々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には眼脂が一杯たまっている。ことに著るしく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といった。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 猫の生涯は人間よりはるかに短い。黒はもう老猫となっている。足を悪くしたのは肴屋に天秤棒で殴られたからだろう。こうなるとますます弱るばかりだ。四季が巡った感はしないけれども数年を経過した感じはある。この現時点はいつなのか実に曖昧だ。

 第二章に、

「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大いに吾輩を賞める。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 両人が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾の残りを頂戴した。吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。まず桃川如燕以後の猫か、グレーの金魚を偸んだ猫くらいの資格は充分あると思う。車屋の黒などは固より眼中にない。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 とあり、その後も車屋の黒は登場する。しかし「吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日」とは如何にも車屋の黒が死んでしまっている感じがする。殺す予定が都合上よみがえったというところか。


[余談]

 どういう了見か『吾輩は猫である』第一章には苦沙弥の妻が登場しない。小供は出て來るのに母親は出てこない。母親とのかかわりがない。関わるのはおさんである。ないものをないといっても仕方ない。ただないことが気にかかる。



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