岩波書店・漱石全集注釈を校正する17 殺されかかった黒と士族気質、吾輩の昼飯と長い技術について
Ars longa, vita brevis
漱石全集には「技術は長く、人生は短し」という意味のラテン語の朱色のハンコのようなものが押されていて、それには当然註はつかない。何が何でも説明してしまうのは野暮だという趣旨だろう。しかし解らないものは解らないし、結果としてはそうした野暮を嫌ったところで夏目漱石作品は悉く誤読されてきたので、こんなことも書いてしまう。
百年の曲解って、お前は馬鹿だろうという人は、まずは無料で公開されているこのnoteの記事を
ここから試し読みしてもらいたい。現に「現代文B」の参考書は『こころ』を「愛と友情の物語」に収斂させ、「財産と擬制家族」という視点を捉えていない。
なんにしても人生は短い。
夏目漱石作品を曲解したままでも死ぬことはできる。ただ、そんな一人一人が夏目漱石という作家を殺したのだとも言える。
近代文学2.0はある意味では鎮魂歌に過ぎない。さて、
弓
岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、
注は漱石に弓の句があること。昔弓の経験があるらしいことを簡潔にまとめている。この点少し冗長になるかもしれないが、人物評として「弓が巧み」であるという点を加えたい。
これは高浜虚子と漱石の二度目の出会いの記録である。いかにも士族然としたたたずまいであるが、戸籍上は漱石は平民であった。あるいは平民ながら士族気質があった。(正岡子規は士族である。)
また漱石は器械体操の名人でもあり、運動神経には優れていた。泳ぎの名人芥川龍之介同様、膂力には恵まれていたのではなかろうか。
昼飯後
全集ではここに注が付かない。猫は普通朝夕の二食である。昼飯を食わせてはならぬという法はないし、実際食わせていたのかもしれないが、だとしたら一応そこには何か注があってしかるべきではなかろうか。
茶の木の根を一本一本臭ぎながら
茶の木の根は人間には良い香りだが、やや柑橘系に近い香りなので、果たして猫が好んで嗅ぐかどうか。お茶は猫に有害である。
偉大なる体格
車屋の猫の説明。一般的に黒猫は小柄である。大型の黒猫は珍しい。ちなみに長毛の野良猫も稀で、私は一匹しか知らない。従って吾輩がペルシャ系の長毛で捨て猫なら、生存確率は極めて低かったのではないかと考えられる。
待合
いや、待合ぐらい誰でも知っているだろうと、ここにも注がつかない。待合は範囲が広い。『それから』の「赤坂の待合」では代助は芸者と一晩過ごしたものと解される。しかし待合とは必ずしも芸者と一晩過ごす場所ではないし、食事をしたりもする。相手は芸者とは限らない。現代にはないものだけに何か説明が必要だろう。
車屋の黒は其後跛になつた
一章のみで完結する予定であった『吾輩は猫である』の結びの手前では、急速に時間の経過を匂わせる。いよいよまとめにかかっているという感じがする。そこで冒頭のArs longa, vita brevisが効いてくる。なるほど、
猫の生涯は人間よりはるかに短い。黒はもう老猫となっている。足を悪くしたのは肴屋に天秤棒で殴られたからだろう。こうなるとますます弱るばかりだ。四季が巡った感はしないけれども数年を経過した感じはある。この現時点はいつなのか実に曖昧だ。
第二章に、
とあり、その後も車屋の黒は登場する。しかし「吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日」とは如何にも車屋の黒が死んでしまっている感じがする。殺す予定が都合上よみがえったというところか。
[余談]
どういう了見か『吾輩は猫である』第一章には苦沙弥の妻が登場しない。小供は出て來るのに母親は出てこない。母親とのかかわりがない。関わるのはおさんである。ないものをないといっても仕方ない。ただないことが気にかかる。
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