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身代わりに消されてしまった夏目漱石の「僕」

 ついさっきすれ違ったサラリーマンが「身代わり弁当何だった?」とはっきり言っていたので、身代わり弁当のおかずのことで頭がいっぱいだ。身代わりと云えばそれはつまり「唐揚げ弁当」に対して「厚揚げ弁当」、「ハンバーグ弁当」に対して「つくね弁当」、「のり弁当」に対して「とろろこぶ弁当」になろうかとは思うが、白身魚のフライとちくわの磯部揚げに代わるおかずが思いつかないのだ。これをアジフライとかまぼこにしてしまうとたちまちアジフライ弁当に代わってしまう。ハムカツとアスパラベーコンというわけにもいかない。この代えがたさというものが幕の内弁当になるとさらに高まる……。

 こんにちは。小林十之助です。近代文学2.0をやっています。

 というわけで、夏目漱石作品に於いて、「僕」が主人公となる小説に何があるか、考えていたらいきなり「身代わり弁当何だった?」と余計な情報が入ってきて混乱してしまった。夏目漱石で「僕」と云えば、まず『僕の昔』が思い浮かぶ。しかし小説は……ちょっと思いつかない。
 それは勿論「僕」という文字が出てこないという意味ではなく、「僕」が「僕は……」と語る小説に思い当たらないという意味だ。

『吾輩は猫である』は「吾輩」
『趣味の遺伝』は「余」
『倫敦塔』は「余」
『カーライル博物館』は「余」
『坊っちゃん』は「おれ」
『琴の空音』は「余」
『夢十夜』は「自分」
『変な音』は「自分」
『草枕』は「余」
『永日小品』は「自分」
『坑夫』は「自分」
『こころ』は「私(わたくし)」

 あとは三人称で名前が呼ばれていたような気がする。「僕は…」という語りの記憶がない。しかし、実は全集を見ると、

 休まうかな、廃さうかなと、通り掛りに横目で覗き込んで見たら、例の袢天とどてらの中を行く男が突然此方を向いた。煙草の脂で黒くなつた歯を、厚い唇の間から出して笑つている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端に、向うの顔は急に真面目になった。今迄茶店の婆さんと去る面白い話をして居て、何の気もつかずに、つい其の儘の顔を往来へ向けた時に、不図の面相に出つ喰したものと見える。ともかく向ふが真面目になつたので漸く安心した。安心したと思う間もなく又気味が悪くなつた。

(『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』岩波書店 2017年)

このように主人公に「僕」が使われている。これが「青空文庫」だと、

 休もうかな、廃そうかなと、通り掛りに横目で覗き込んで見たら、例の袢天とどてらの中を行く男が突然こっちを向いた。煙草の脂で黒くなった歯を、厚い唇の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端に、向うの顔は急に真面目になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出っ喰くわしたものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間もなくまた気味が悪くなった。

(夏目漱石『坑夫』)

 ……と改められている。この後、「自分の口から鼻、鼻から額と」の部分も新聞連載時には「の口から鼻、鼻から額と」と書かれていたようで、単行本ではそれが「自分」に改められたところを、『定本 漱石全集第五巻 坑夫・三四郎』は、その表記を復活させている。そういう意味では二回だけ使われた主人公の「僕」は「自分」が身代わりになることで、全集に辿り着かない人たち、あるいは全集に辿り着いても註までは読まない人たちの記憶からは殆どないものにされている筈だ。

 夕べ芥川龍之介の『葱』のお君さんの渾名の一つ「角砂糖」について考えていた。カフェに欠かせないから角砂糖では「カ」一文字しか合っていない。ゆうこりんとコリン星みたいなものだ。実は「欠かせない」は「書かせない」で、「書く座頭」……とあれこれ身代わりを考えていた。
 しかしいい身代わりは見つからない。
 なんにせよ「僕」には身代わりになってくれる「自分」がいて良かった。いや、良かったのだろうか?

 実は「僕」と自称してもっとナイーブな主人公にすることも出来たところを件の藤村操の件もあるのでナイーブさを避けたのだろうという気もしないでもない。唐揚げ弁当は唐揚げがからっとしているから人気なのであり、やはりじとっとした厚揚げでは身代わりになるまい。身代わり弁当の困難さは、想像を絶する。



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