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岩波書店・漱石全集注釈を校正する 16 吾輩に名前がない理由

吾輩に名前がない理由

 本文中「三毛」に続いて現れる「筋向の白君」にも注はつかない。しかし「三毛」に続いて「白」が現れ、やがて「己あ車屋の黒よ」と言われるに至って冒頭付近の「第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」という記述が思い出される。

 主人のうちへ女客は稀有だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳へ擦り付けながら這入はいって来る。年は四十の上を少し超したくらいだろう。抜け上った生え際ぎわから前髪が堤防工事のように高く聳えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨より細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社の石灯籠を移した時のごとく、独りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻で、ひと度は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗き込んでいる。かく著しい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ここまで一貫して吾輩はルッキズムである。私は何もそのことを批判しようというのではない。ただ猫の命名が、毛並みによって行われていることを確認したいのである。

 してみると、吾輩に名前の無い理由が見えてくるように思える。何故なら吾輩は、

 吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

  実は「波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している」という吾輩の説明に対して、そもそも初版本等のイラストでは白黒の画が使われたこともあり、「黄を含める淡灰色に漆」という理解が浸透していない。また長毛種という認識も殆どないのではなかろうか。それにしても「黄を含める淡灰色に漆」では「三毛」「白」「黒」といった単簡な名前は付けられないことは確かだ。「三毛」「白」「黒」といった単簡な名前は吾輩に名前がないことの一因ではあるだろう。

[余談]

 吾輩が生まれたのは、春(2月〜4月)と夏(6月〜8月)にピークを迎える猫の発情期、そして猫の妊娠期間65日から考えるとやや遅い時期、冬であるように思われる。「そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来る」「しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん」「朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上」とあるので冬生まれかなという感じがする。

 そこに「遅い子」として正月五日に生まれた夏目漱石自身の投影があるように思うことは自由であろう。しかしこれはあくまで余談である。


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