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岩波書店・漱石全集注釈を校正する20  御維新前の静岡では土手三番町に市が栄えた


旧幕時代に無い者に碌な者はない

 ここにも注はつかない。しかしこのようにちくちくと夏目漱石が明治政府や天皇を批判してきたことは事実で、そのことをあまりにも暈してきたおかげでこのような誤解も生じている。

 ペストは繰り返し中国からもたらされた。江戸時代にペストはなかった。

 ペストにも注が付かない。そうした事実も誤魔化してはいけない。

御維新前

 ここにも注がない。『坊っちゃん』では「瓦解」と呼ばれ、元々は「御一新」と呼ばれ、永井荷風は「維新の亂」とまで読んだ明治維新の「維新」とは明治以降に作られた官製の呼び名であることが明らかにされている。

 ここでもわざわざ「御」をつけていることと「瓦解」の落差を解説すべきではなかろうか。

屋敷町

 明治以降も戸籍には士族、平民の身分が残った。屋敷町とは主に武士が住む町で武士は「まち」に町人は「ちょう」に住んだ。漱石は戸籍上は平民だった。そこに対する自虐が見えるポイントなので、何か説明を足したいところ。

静岡

 ここにも注が付かない。静岡は本作中何故か静岡が揶揄われる。

「そうですとも、出鱈目じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「まさか」と細君が小さい声を出すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしからぬ様子で聞く。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 松山が不浄の地と言われるのは都落ちの無念から来る行き過ぎた愚痴と解するべきかもしれないが、この静岡の扱いは、延岡を山奥にしてしまうような、漱石の無軌道さの表れであろうか。
 それにしてもなぜ静岡という研究はないものだろうか。

土手三番町

 岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

土手三番町の首懸けの松 「懸けの松」については、鶯亭金一升の「牛込の土手」のことが回想されている。また徳川夢声『夢声自伝』にも旧牛込駅(現、飯田橋駅)近くの土手に「有名な首くくりの松」があった話が出ている。(槌田満文『明治大正の新語・流行語』参照)

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。


 千代田区五番町と飯田橋駅では約1.7キロの距離がある。


『民主政治読本』 尾崎行雄 著日本評論社 1947年

 この土手三番町の首懸けの松は「牛込の土手」の松でいいのだろうか。あるいは「牛込の土手」の松がモデルではありながら、土手三番町に微妙に位置がずらされたということなのだろうか。確かに土手三番町の首懸けの松は見つからない。
 しかしここは少なくとも土手三番町が麹町区であり、牛込区ではないことは案内すべきだろう。

市が栄えた


 岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解に、

市が栄えた 「一期栄えた」の転訛。おとぎばなしをする時、結びにいう言葉。一生涯繁盛したという意で、めでたしめでたし、と同じ。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。この説明は、

「それで市がさかえた」などは好い言葉であるが、或は「一期さかえた」から轉訛したものでは無いかとの說もある。


「市が榮えた」は亦一つの改定であつて、本來は「いちご榮えた」、卽ち昔話の主人公が長者となり、一期滿々と繁昌したといふことで、多くの物語の「めでたしめでたし」も同じであつたらうことは前にも述べたが、

『昔話覚書』柳田国男 著三省堂 1943年


 という辺りの説からの説明かと思う。しかし柳田国男は同じ本の中に、

江戶では以前「それで市が榮えた」と謂つたさうだが、今では普通「それでおしまひ」といふことになつて居る。

『昔話覚書』柳田国男 著三省堂 1943年

 このような説明を加えている。『吾輩は猫である』の作品中の実際の場面で見てみると、

……果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。撓り按排が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日は無拠処き差支えがあって出られぬ、いずれ永日御面晤を期すという端書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。
「見るとどうしたんだい」と主人は少し焦れる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐をひねくる。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

ここの場面、

 ……ってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。


これを、

 ……ってついにうちへ帰ったのさ」
「それでめでたしめでたしかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。

としてみて、

 ……ってついにうちへ帰ったのさ」
「それでそれでおしまひかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。

 と比べてみれば、少なくとも一期滿々と繁昌したわけではないので、後者の意味の方がよりふさわしいと思える。

 また、

少時雜談に市が榮えた。

『煤煙 3巻』森田草平 著新潮社 1913年

傳五郞 雜と先づ市が榮えた。縺れには重寶な年寄ぢやが、邪魔なもの。さあ、塵山が許へ出懸けましよ。

『紅玉』泉鏡花 著植竹書院 1913年

すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛禮に遣つて、其の晩は市が榮えたが。

鏡花全集 巻之十泉鏡花 著岩波書店 1942年

 ……とむしろ「めでたしめでたし」の意味の用法は見つからず、「おわった」「いったん何とかなった」というような意味に取れる用法の方が多いことからも、ここは目出度い要素を外して、ニュートラルな「おしまい」の意味に解釈してはどうだろうか。


[余談]

 カカオポリフェノールにはエピカテキンが含まれています、と「チョコレート効果」の個包装に書いてあった。と言われましても……。エビカテキンなら驚くけど。



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