江藤淳の漱石論について⑪ 漱石の天皇観再び
なにやら夏目漱石を明治天皇に背く謀反者に仕立て上げて悦に入っている馬鹿がいるようだが、とどこかの誰かはいい加減な反論を試みるかもしれないが、どうも夏目漱石が天皇に対して一言言いたげなことは確かで、謀反者とは言わぬものの、批判者であることは間違いないようだ。
断片三〇において「民ノ声が天ノ声ナラバ天ノ声ハ愚ノ声ナリ」と書き、断片三一Bにおいて「ワガ君ヲ完キ人ト思ハズ」と書き、「世界ニ自己ヲ神ト主張スル程ノ自惚者少ナシ。又自己ヲ神ノ子ナリト主張スル程ノ馬鹿者少ナシ」と書き、断片三二Gで「昔は御上の御威光なら何でも出来た世の中なり、今は御上の御威光でも出来ぬことは出来ぬ世の中なり」と書いた漱石はどうも天皇の神聖に対して批判的である。また断片三二Gの二行は抹消されている。この批判が危険なものであることも承知していた。
断片三二Gにはさらに剣呑な文句がある。
断片三二Gは明治三十八年から明治三十九年の間に書かれた。乃木大将夫妻の殉死は大正元年のことである。漱石はその何年も前に先回りして、天皇に殉死することの馬鹿馬鹿しさを批判していた。そのようなことはあってはならないと考えていた。よくできた嘘話のようだが、これは漱石全集で誰でも確認できる事実だ。漱石は確かにこの時点でまさかそのようなことはあってはならない、あるべきではないと考えていた。しかし乃木大将夫妻の殉死は起きた。時系列で考えれば、まるで乃木大将夫妻が話を面白くしたようになるが、大正元年には漱石全集はまだないことから、話は偶然面白くなったのである。
江藤淳から柄谷行人まで『こころ』における先生の自死について、作品の主題と乖離し、作者自身の自己抹殺の願望が現れたものと見做す傾向があるようだが、夏目漱石自身は断片35Eに「世ノ中ハ自殺シテ御免蒙ル程ノ価値アルモノニアラズ」と書いている。先生の死はその妻の名を「静」と名付けた時点で確定していた作品の主題そのものである。まさに「何故静子は殺されなければならなかったのか」と考えさせるために先生は殺され、静は生かされたのだ。先生は明治の精神、すなわち「急ごしらえの明治政府をなんとかもっともらしく見せるために腐心した臭い物に蓋の精神」に殉死したのであって明治天皇や乃木将軍に殉死したわけではない。先生の自死は静をなるべく純白なままにしてやりたいという、証拠隠滅のための死であり、臭い物に蓋をする行為だった。
さて、ここに皇室批判がないと言えるだろうか。断片などという紙くずをどこからか持ち出してくることを重箱の隅を突くというのだ、というくらいの反論しかあるまい。無論断片にはさして意味のないかきつけがある。しかしこれはどう見ても皇室批判なのだ。そして重要なことは「百年ノ後ニハ誰モ之ヲ尊敬スル者ハナイ」と書いていることである。夏目漱石はこんなものが百年続くわけがないと考えていた。あるいはまさか明治天皇が神になるとは考えていなかったのだ。
この断片35Cはかなり長文でエライ人、社会の不平等、見識、教育、資格、寿命、戦争などに触れられている。その次の断片35Dは西洋と東洋の違い、文士の保護、奴隷、…と話題が流れ、ついに仮面の話になり、決定的な一言を記してしまう。
この態度にはまた漱石の文章論からの解釈が有効だろう。
「明治天皇奉悼之辞」は都合の良い仮面である。無論夏目漱石は天皇に対する臣民としての礼儀はわきまえるべきであると考えていた。能を見に行って陛下殿下の態度が謹慎なので敬愛に値すると日記に書いている。臣民の礼儀に欠く態度を咎めている。しかしおかしいものはおかしいと云う態度は崩さない。天皇の神聖や権威に拘泥していないのだ。
天皇に拘泥していないからつい三島由紀夫に叱られそうなことを書いてしまう。近づき易く親しみ易い皇室、いわゆるイギリスのロイヤルファミリー的なものが良いと漱石が書くのは、やはり英国留学で得た知見もあっての事だろう。日本の皇室にまだ四十数年の歴史しかなく、英国王室が数百年長持ちしていることを比較したのであろう。我等の同情に訴へてという表現のうちには、仰ぎ見る意識はない。明治四十三年六月九日、漱石は日比谷で高貴な人の馬車に脱帽して敬意を示した。皇后陛下の馬車だったが漱石はそれと知らずに脱帽した。脱帽は単なる礼儀である。
漱石は皇室だけを批判しているのではない。華族や元老など、おかしなものに批判的なのだ。
松根東洋城は漱石が贔屓にしていた弟子の一人である。愛媛県尋常中学校時代に夏目金之助に英語を学び、卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いだ。名家の出で宮内省に入った。
漱石は「人を馬鹿にしてゐる」ものが嫌いだ。それにいわゆる「愛国者」でもない。
漱石はいたずらに他国民を侮蔑しない。今いたずらに他国民を侮蔑する「愛国者」が流行っているが、漱石はそういう態度はとらない。無礼な者、駄目なものは誰であれ批判するのだ。
これは乃木将軍のことだろう。いや、官軍の統帥権は明治天皇にあった。乃木将軍を批判すれば、それはすなわち明治天皇批判である。
明治四十ニ年七月、四人組の支那人が夏目家の下女を威嚇し、漱石夫人の従妹の御房さんの尻を蝙蝠傘で突いたという。三日の晩、漱石宅へ支那人がやってきて、「私あなたのうちの事みんな聞いた。御嬢さん八人下女三人、三円」と訳の分からないことを言ってきたそうだ。帰れと言っても帰らぬので巡査に引き渡すぞと脅したところ「私欽差あります」と言って帰ったらしい。欽差とは天子の使いである。天子の使いに対して「まるで気狂なり」とは漱石の感想である。
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