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ケリー・ライカート『オールド・ジョイ』横溢する"緑"が消えるとき

12年の年月を経て、ケリー・ライカートが復活したのは2006年のことだった。その間に起こったことと言えば、アメリカの右傾化とブッシュ政権の誕生であり、それによって彼女の言うところの"楽観的な時代"だった90年代は終りを迎える。大人数での長編映画制作に息苦しさを感じていた彼女にとって、映画製作への失望と政治局面への失望を抱えた2000年代の幕開けは嘆かわしいものだったかもしれない。一つだけ確実に言えることは、前作『River of Grass』から12年経って、作風が劇的に変化していることだ。全く他の監督の作品と言われても気付かない。それはよく、社会から疎外される人々の物語(そこには対比が存在する)から個人主義的な映画への転向とも言われ、前作の精神的リアリズムをアップデートすることで独自路線を開拓したのだ。

主人公はマークとカート。彼らは"はみ出し者"ではないが、個人の中で抗えない不安と孤独を抱えている。冒頭からして不穏だ。カートが"久しぶり!キャンプしようぜ!"という電話を掛けてきたのに対して、妊娠中の妻ターニャはマークに対して冷たい。"行って良いかい?"と訊くと"訊く前に決まってるでしょ?"と言われ、マークは無言で準備を始める。しかし、この二人の間が出産を前に完全に断絶しているとも思えない。それを証明するように、マークは頻繁に掛かってくるターニャの心配した電話を取り続ける。この夫婦がどんな関係性なのかはこの短い冒頭だけで判断せざるを得ないし、これだけでは情報は足りなすぎるのだが、幕開けから不穏な空気を煽るのだけは事実である。

緑の車に乗り込んだ二人が進む道程には、木々や道沿いの草むら、緑の橋など含めて車窓にも緑のものが多く登場する。それらは横方向に薄く広がっているが、山に来ると上方向にも緑が増え、遂には画面全体を支配する。夕暮れ時になると赤く染まるなどという演出はなく、どちらかというと闇ごと緑がかってきて、画面の質感は古い写真のようなザラついた緑色が優勢になる。『リトアニアへの旅の追憶』っぽい色味。続く焚き火を囲むマークとカートの会話で、"都市には木があって森にはゴミがあるし、両者に違いはないでしょ"というフレーズが登場し、画面を緑で繋ぐことで示した潜在的な都市と自然の連続性を回収する。それとは対称的に、二人の関係は時間的にも精神的にも断絶している。嫁から掛かってくる電話に毎回必ず出ているマークに対して、苦々しい顔を向けるカートのどアップが印象的だ。

断絶の正体は、シーンを経るごとに朧気に理解できる。マークは自分の子供が生まれることで父親になることを恐れていて、カートはそんなマークが遠くの存在になることを恐れている。カートは思い出話や夜間学校の物理で世界の真理を悟ったことを饒舌に語り続けるが、決してマークとは交わらない。彼らは山奥の秘湯に入りに来たわけだが、この風呂に入るだけのシーンにおける断絶感も素晴らしい。別々の風呂に並んで入る二人は風呂桶が違う時点で断絶しているが、同時に並んでいるせいで視線も切られてしまい、アップになった画面からは互いがはみ出して見つめ合うことはない。やがて、カートはマークの肩を揉み始める。スッと薬指を風呂桶に入れて隠すマークに対して、無言で揉み続けるカート。異様な緊迫感だが結局は何も起こらない。会話の映画であると見せかけて、こういった静かな時間がこの二人を優しく包み込む。それこそが通じない最近の話ではなく、二人の間で確かに通じる言語であるかのように。

画面に満ち溢れていた緑は、唐突に失われ、完全に断絶した二人の関係は夜の闇が覆い隠す。しかし、希望は残されている。緑の保冷バッグは先に降りたカートが持ち帰り、そのまま緑の車に乗ったマークと別れるからだ。そして、別れた二人が闇に消えていく中、ボヤけた街灯に照らされながら題名"Old Joy"が登場する。これは実は二回目の登場で、一度目はカートの家のベランダで家の主人の帰りを一人待つマークを見据えながら出てきていた。彼らは"Old Joy"を通して繋がっているのだ。

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・作品データ

原題:Old Joy
上映時間:76分
監督:Kelly Reichardt
公開:2006年8月25日(アメリカ・限定公開)

・評価:80点

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