yukiura

長崎県西海市出身。縁あって、2019年から福島県大熊町に住んでいます。

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長崎県西海市出身。縁あって、2019年から福島県大熊町に住んでいます。

最近の記事

間もなく13年の大熊で。

 先日、仕事で続けていた大熊町の日常をつづる月一の情報紙の終了を決めた。大熊町の最初の避難指示解除の直後から4年半、原則月一としながらサボることも想定してたけど、結局ほんとに毎月1回、同僚と書き続けた情報紙。やめた理由の一つは、もはや大熊の日常が普通になりすぎて、特筆すべきネタに苦しむ、という、書いてきた身からすると前向きな理由だった。  1か月ほど前、帰還困難区域で、数年ぶりに前職の先輩と仕事で一緒になり、「大熊どう?」と聞かれて「なんか『どう?』って何聞かれてんだっけっ

    • こうして風化を助長してんのかなあという実感

      日々、大熊でそんなに難しいことを考えて生活していない。 「あ、明日放出なんすね」「そうなんだよねー」。8月23日朝、職場でネットニュースを見て同僚と話したのが唯一のこの話題。24日朝、長崎の母からの「新聞読んで大熊も騒がしいのかとー」というメールに「住んでる身は別に忙しくない、普通だよ」と返信。周りのざわつきでニュースの大きさに気づく、処理水/汚染水の話。 この週は、反省しかない自らの働きに「今、自省する暇があったら動けよ」と自分をどやす仕事ウイークだった。SNSでちらほら

      • 大熊に住み始めたときは

        我家の前の畑に今年植えられたひまわりが満開になった。 町民有志のプロジェクトで山麓線沿いの畑などが毎年、ひまわりで彩られてきたが、今年はうちの畑(大家の畑)が加わった。「うわ、恩恵しかない」と思ってはいたが、咲いてみると、お日様の当たり具合で花は道路からそっぽを向き、我が家のベランダが特等席となっている。ここまでくると、恩恵というより、かたじけない。 4年前、大熊町にこの一軒家を借りることができて住み始めた時、私はもっと自分に期待していた。全町避難が解除され、これまで避難先

        • 言葉をもっと温めたい。

          忙しかった、と気付くのが遅れるくらい、忙しかったのだと思う。 よく「忙」は「心を亡くす」と書くというが、「ありゃ、亡くしてる」と気づいたのは初めてで、そのきっかけは「時の海ー東北」という現代アートプロジェクトへの参加だった。 7月頭に開催した双葉郡全体の事業の担当となり、そのプレッシャーは私の未経験さも相まってなかなかのもので、でも仕事はそれだけじゃなくて、どの仕事も一応「やれてる」状況にするために、心を動かすことをやめていたんだと思う。 そんなことに気づかずに、がしがし

        間もなく13年の大熊で。

          13年目はなんかあたらしい

          春いっぱいの大熊、我が家。今年は春が早くて、庭のつつじはゴールデンウイーク後半の今はもう終わりかけだ。木々は初夏の鮮やかさ。1年でうちの庭が最も輝く季節をゴロゴロと過ごしつつ、本当は3月あたりに書いときたいと思っていたことを記録してみる。 大熊生活、フェーズが変わった。世代交代ってやつである。 要素として、2022年6月の特定復興再生区域の避難指示解除があると思っている。大熊で居住可能地域が増えて、リフォーム等の準備を進めていた民間のアパートが受け皿として機能したことで、移

          13年目はなんかあたらしい

          双葉郡を案内するーー伝えたいことってなんだろう。

          少し前、大熊町で暮らす年月が積み重なるにつれ、ここでの生活が「個人的なこと」になり、よく知らない人に「伝えたいけど言いたくない」ことが出てきたと書いた。それから間もなく、10年ほど前に東京で働いていた時にお世話になった人が、3月10、11日と遊びに来てくれることになった。 わざわざ神奈川から来てくれるのなら、この地域のことも伝えたい。久しぶりに各所に下見までしてプランを立てた。私は何を伝えたいのかな、と考えるいい機会になった。あくまで大熊町の紹介に主眼においた、個人的な主観に

          双葉郡を案内するーー伝えたいことってなんだろう。

          資料が伝える力

          大熊町の南隣、富岡町のとみおかアーカイブ・ミュージアムの企画展「震災遺産を考える 2023~完全再現・災害対策本部」を見にいった。 詳細はできれば現地で見てほしいし、富岡町の学芸員さんに確認してほしいのだが、富岡町は東日本大震災後、避難地域でいち早く本格的な震災関係資料の保全に取り組んできた。その一つに、2011年3月11日に設置された町災害対策本部の空間保全がある。災害対策本部が置かれたその部屋そのものは保全できなくても、通常は資料としてみなされないようなお菓子の包み紙や

          資料が伝える力

          大熊町民の私と警察のお付き合い

          双葉警察署から感謝状を受けた。なにをしたということはない。3年間、双葉郡を管轄する双葉警察署協議会に大熊町委員として参加し、本日任期を終えただけだ。 警察署協議会は各警察署長の諮問機関で、管内の住民代表で構成される。大熊町に人が再び暮らせるようになって1年が経過したころ、私は単に大熊に住んでいるというだけで、双葉署に人選を相談された役場から相談され、受けた。だって、警察署から直接この地域の治安について説明を受け、質問もできるなんて、面白そうだったんだもの。 とはいえ、コロナ

          大熊町民の私と警察のお付き合い

          大熊が自分ごとになって生まれる矛盾。「伝えたいけど、言いたくない」がある。

          先日、福島県立博物館で始まった「写真展 福島、東北 ~写真家たちが捉えた風土/震災」の企画で、3人の写真家のトークイベントに参加した。震災を一つの契機にそれぞれに福島と向き合った写真家3人が、写真という媒体に込めた気持ちを作品を目前に聞けて面白かったのだが、私は、トークの間、自分の閉鎖性に動揺していた。 写真家の一人が、展示に絡めて震災直後に訪れた避難自治体での活動とその後の行動を自己紹介した、その説明にいらだったのだ。それは反射と言っていいと思う。ーー除染されていない土地

          大熊が自分ごとになって生まれる矛盾。「伝えたいけど、言いたくない」がある。

          わたしにとって大熊は、自分を映す鏡のようなもの

          2023年、元旦は大家の電話で起きた。毎年、1月1日か2日に居間の神棚を拝みに来る。午前8時過ぎ、「着きました」「あ…私寝てたんで、鍵あけて入ってもらってOKです~」「降りてくるか?」「そうっすね」。えいやと、寝巻、寝起きの顔に眼鏡だけかけて1階に降り、大家夫婦と私の3人が並んで、この家の神様に新年のあいさつ。「はやくにすみませんね」と大家は早々に帰っていった。川内村で作った(作ってもらった)しめ縄を大家はほめてくれるに違いないと思ったが、やはり、ほめてくれてうれしい。 昨

          わたしにとって大熊は、自分を映す鏡のようなもの

          大熊に住んで3年半あまり。初めてご近所さんができた。

          先週末は忘年会をはしごした。大熊町の人たちが獲った地域の食材がさばかれ、焼かれ、おいしい酒と一緒にたらふく食べて、よく笑った。その足で向かった2軒目では町と自分の関係性について酔っぱらいながら語る。久しぶりに日付をまたいで寝た翌朝、うすらとピンポンの音で目が覚めた。 1軒目で傘を忘れてきたことを思い出し「届けに来たか!」と寝巻に眼鏡を引っかけて玄関を開けるとなじみのない女性。道路を挟んで向かいに越してきたご近所さんが、おせんべいを持ってあいさつに来てくれたのだ! 向かいの家

          大熊に住んで3年半あまり。初めてご近所さんができた。

          被害とか、加害とか。

          週末、岩登りに行って、その足で登山山岳会の忘年会に参加して、自分たちを「山屋」と誇りを持って呼ぶ人たちとひとしきり笑ってきた。そこで、一人の山屋の先輩がPCをテレビにつないでくれて、ネットフリックスでいろんな山に関するドキュメンタリーとか映画とか見ながら酒を飲み、たらふく食べた。 会話の中で行ってみたい山として「下ノ廊下」っていうのが出て、先輩がさっそく検索した若い男の子2人の下ノ廊下のyoutubeを見ていたら、行程に隧道(トンネル)跡が出てきた。そこが暑くてたまらん、と

          被害とか、加害とか。

          大熊町での人間関係ー約束のいらない関係が二つ、三つ。

          写真は、大熊町大川原地区の私のいやされスポット、S邸。ざる菊の名所として知ってる人は知ってるが、ざる菊があってもなくても私にとっては素晴らしいアミューズメントパークだ。「いい天気だな」「なんか私、疲れてんな」「そろそろあれの見ごろだな」と思ったら、てくてくと歩いていく。「いますかー」と声をかけ、いたらお話する。大体昼でも夜でもビールとつまみが出てくる。いなくても、適当に目的通りSさんの創作にあふれた庭を散策して帰る。 とーぉっても、ありがたい関係性である。 前に、「うちの町

          大熊町での人間関係ー約束のいらない関係が二つ、三つ。

          町民であるという意識

          大熊町に住み始めて3年半あまり。よく思う。これまで、こんなに「町民」であることを意識したことがあったか、と。 私は長崎の小島の出身であり、合併して町の名前が「自治体名」としてはなくなった今も「崎戸出身」という意識はある。が、崎戸町民として自分を考えたことはあまりなかった。中学卒業とともに島を出たからなのかもしれない(町ではなく島を出たという意識)。 その後、社会人となって、異動とともに1~3年位のスパンで引越しを繰り返し、都度住民票も移してきたが、正直、「青森市民」「中野区民

          町民であるという意識

          大熊で不便を感じていないのはなぜ?

          大熊町大川原地区に暮らして3年半あまり。町外から、避難指示が解除されて間もない、まあ、もともとの町民でもそんなに戻ってこないところに住み始めたわけなので、不便を前提に生活感を問われることが3年半たった今もある。が、最近明確に気づいたが、私は大熊での生活を不便だと思ってない。「不便さ」(もしくは「便利さ」)というキーワードで、特にこの町に伸びしろを求めてないのだ。 今、大熊町にいわゆるスーパーはない。ちょっと立派なコンビニがあって、そこも午後8時に閉まる、飲食店は4店舗。夜は

          大熊で不便を感じていないのはなぜ?

          大熊町大川原から、日々つれづれ

          2022年10月30日(日)午後。いわきに暮らす大家がやってきて、庭の柿を取って帰っていった。伸びたつつじの枝先に振れ「少し刈り込んでやっか」と鼻歌のようにつぶやいていた。次来るときは、庭の手入れに力を入れるのだろう。柿は栄養が足りてないからエグいそうで干してみるそう。 福島県大熊町大川原地区にあるこの家には、2019年5月から住み始めた。この地区の避難指示解除から約1か月後のことだ。 大家が幼いころから、というよりもっと前の代からここで暮らしてきたT家は、2011年の原発

          大熊町大川原から、日々つれづれ