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間もなく13年の大熊で。

 先日、仕事で続けていた大熊町の日常をつづる月一の情報紙の終了を決めた。大熊町の最初の避難指示解除の直後から4年半、原則月一としながらサボることも想定してたけど、結局ほんとに毎月1回、同僚と書き続けた情報紙。やめた理由の一つは、もはや大熊の日常が普通になりすぎて、特筆すべきネタに苦しむ、という、書いてきた身からすると前向きな理由だった。

 1か月ほど前、帰還困難区域で、数年ぶりに前職の先輩と仕事で一緒になり、「大熊どう?」と聞かれて「なんか『どう?』って何聞かれてんだっけって戸惑うくらい普通ですね」というと、「そっか、日常なんだね」と返してくれた。帰還困難区域で落ち合いながら「普通ですね」もないもんだけど、町の半分に避難指示が出されていることも含めて、私には普通だ。バリケードを見ることも日常的だけど、避難指示が解除された区域が広がって、許可証を持ってバリケードを通過しないと行けない場所は2,3年前からするとぐんと減った。

 私は、大熊町に居を構えて多分2年目くらいから、ニンニクを買ったことがないのだけど、それは同じ地区に暮らす大家の親族が、毎年畑で採れたニンニクを勝手にうちの軒先に吊るしていってくれるからだ。地域でも名前を言えば「Tさんはなあ…」とみんなが認める野菜作りの名人で、朝どれのスイカを午前6時に届けてくれたこともあった。
 自分が生まれ育った場所で土を触って生活したいと、高齢なのに単身、避難先から大熊に戻ったから、野菜は作っては投げる(捨てる)ようなものだった。だから、私はなんの遠慮もなく届けてくれる野菜を消費していた。が、そのじいちゃんは昨年、亡くなった。訃報はしばらくして大家から聞いた。

 毎年ご相伴に預かっていた、ニンニクや玉ねぎやジャガイモに感謝し、ああ、来年から、Tさんのニンニクは食べられないのか、と思った。避難者とか帰還者とかの彼の人生に過剰に思いを寄せることなく、生活の中で知った人の死を、近すぎず遠すぎない、まっとうな距離感で悼むくらいの時間をこの場所で過ごしたんだな、とも思った。もっと料理好きだったら、Tさんの野菜をもっと使えたのにごめんねと、これまでも思ったことを思ったけれど、しょうがない。私は料理が苦手だもの。

 3月11日がまた来るけれど、特に何をするわけでもなく、ただ今年も消防の役割で黙とうラッパを吹く。その練習すら若干煩わしくもあり、でも練習の中の雑談でふと、津波にのまれそうになった13年前のあの日のことを、「生きててよかった」という実感を、町民から聞いたりする。それは役得だと、やはり思ったり。そういう話がふと聞けることも、もはや私の日常の一部で。

 私は長崎出身で、正月、ここでの生活を少し親に話すと、父は「かわいがってもらっとったいな」と、安心したようにちょっと寂しそうに言った。うん。それなりやけど、それなりの関係性がちゃんと大熊にもできとるよ。
 もうそこに、避難自治体でのコミュニティがどうとか、という気持ちは、少なくとも生活においては、ないよ。
 数少なくなった、軒先のニンニクを取りに行くたび、ああ、もうなくなるな、と思う。Tさんを偲びつつ、今年、誰かほかにニンニク作っとらんやろか、と思う。みもふたもない、日常を過ごしている。

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