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こうして風化を助長してんのかなあという実感

日々、大熊でそんなに難しいことを考えて生活していない。
「あ、明日放出なんすね」「そうなんだよねー」。8月23日朝、職場でネットニュースを見て同僚と話したのが唯一のこの話題。24日朝、長崎の母からの「新聞読んで大熊も騒がしいのかとー」というメールに「住んでる身は別に忙しくない、普通だよ」と返信。周りのざわつきでニュースの大きさに気づく、処理水/汚染水の話。

この週は、反省しかない自らの働きに「今、自省する暇があったら動けよ」と自分をどやす仕事ウイークだった。SNSでちらほら放出の話題を目にして、そうか、一大事だよなと、チラ見した賛否を述べるコメントに「うわ、みんなすごく調べてるし、考えてる。私、ほんと無関心になってるわ」と自省の種を増やした。
賛否のコメント(私のまわりには多分「否」のニュアンスを込める人が多いのかな)をさらりとなでて、別に見るまで気にしてもなかったのに、なんだか泣きたくなって、「あ、黙っとこ」と思った。

渦中の大熊に住んでいて、この地域の問題が話題になっていて、むしろ「口をつぐみたい」と思う。なんだろう、「すみません」と釈明する側に立っている感覚もある。3.11で黙りたくなる町民の気持ちってこんなのかしら、とも思ってしまった。
風化って、こういう循環なのかもな、と感じた。

日常の中で伝えたいことや言いたいことがないわけじゃない。でも普段は日常に溶け込みすぎてもはや伝えたいことの輪郭をなぞるのもなかなか難しいし、ぼやりとした情報は興味がない人の関心はなかなか引かない。たまに周りの注目と関心が集まるときには、せっかくなのに今度はこちらが、偏って受け止められたり、利用されたり、変に重箱の隅をつつかれんじゃないかと怖くなったり、発信するには勉強不足じゃないかと自分を疑ってみたりで、口をつぐんでしまう。
前職の先輩に「福島のことってニッチなんだよね」と言われて納得したことがある、数年前のこと。当時ですら、ほんとそうなんだよな、と思った。

汚染水は原発事故直後から課題にあがってて、凍土壁とかいろいろやって、無駄だのなんだのあって、いずれにせよタンクはたまり続けてて、ここで仕事してりゃ、原発敷地に入らなくともタンクを目視することもある。うわ、増えたな、と思う。タンクだって物である以上劣化するし、台風だの地震だの大雨だの災害のたびに確認がある。もはや原発事故直後からリスクコミュニケーションは成り立たず、国や「有識者」の見解を信じられなくなった状態で、国はずるずると結論を先送りして、今、ここに来た。住んでる者の一意見としては、敷地がパンクする前に、災害なんかで思いがけない「放出」になる前に、せめて計画的に減らしてくれ、と思ってるのが本音。
だから、放出は既定路線で、24日が私にとっては大きなニュースではなかったのだろう。仕事で必死だったのもあるけど。降ってわいた話じゃない。そして、日々そんな難しいことを中心に据えて生活してない、のである。

一個だけ、報道やSNS投稿にかかるコメントなんかを見ながら思ったことは、安全と風評のことで、もし風評を問題視しているのだとしたら、それは放出と別の課題なんじゃないかなと。上記のような認識の私なので、安全じゃなくて安心の部分での決着がつく時を待つ時間的余裕は感じてない。
流さないで済むのなら、それが一番いいに決まってる。ほんとそう思う。それは、大熊に住むうえで放射線量をどう理解するかにも似ていて、私は今の家でたとえ一生暮らしても健康に影響はないだろうと理解して住んでいるけど、震災前よりも空間放射線量が高くなったこの土地の状況を「よい」とは思ってない。なければない方がいいに決まってる。けど、なくはならないから、数値で判断する。処理水/汚染水も黙っててもなくならない。

写真は、大熊町文化センター大ホールの緞帳。文化センターの解体前に緞帳の記録撮影のために震災後初めて降下され、非常用電源照明で見ることができた。すばらしかった。大熊町沿岸部、熊川海岸にある景勝地「馬の背」が図面にあしらわれている。熊川海岸には朝日が昇る。初日の出を見るスポットだったらしい。
大熊町の沿岸部は、原発事故でほぼ中間貯蔵施設用地となり、ほんの一部富岡町よりの崖地も帰還困難区域となっている。つまり、今も大熊町には立ち寄れる海はなくなっている。
大熊は浜通りなのに海がなくなった。だから、放出の話題も遠いのかもしれないとも、思う。


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