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大熊に住んで3年半あまり。初めてご近所さんができた。

先週末は忘年会をはしごした。大熊町の人たちが獲った地域の食材がさばかれ、焼かれ、おいしい酒と一緒にたらふく食べて、よく笑った。その足で向かった2軒目では町と自分の関係性について酔っぱらいながら語る。久しぶりに日付をまたいで寝た翌朝、うすらとピンポンの音で目が覚めた。
1軒目で傘を忘れてきたことを思い出し「届けに来たか!」と寝巻に眼鏡を引っかけて玄関を開けるとなじみのない女性。道路を挟んで向かいに越してきたご近所さんが、おせんべいを持ってあいさつに来てくれたのだ!

向かいの家の人が帰ってくるというのは、大家から聞いていた。1か月ちょい前、引越し業者の車が止まっているのを「おお、とうとう」と見ていた。残業の後の暗い帰り道、これまでなかった隣家の灯りを見てなんともいえない安心感、じわりとうれしかった。
もともと、この通りにはうちのほか南隣に1軒、北側に少し離れて1軒、そして今回帰ってきた向かいの1軒があった。でも、うちと向かいのほかは震災後に解体されてしまっている。私がこの家に住み始めて3年半ちょっと。いまさらご近所さんができるとは正直、思っていなかった。

灯りはうれしい。でも、大家が避難先から「〇ちゃんが帰ってくる」とそわそわ様子を伺いにくるような関係性は、今ここに住む私にはない。そして、私は初めて東京に暮らした時、人と人の関係性の薄さ、無関心さに心地よさを感じた、田舎者である。

私が大熊を暮らしやすく思う理由の一つに、地縁コミュニティの希薄さがある、と思っている。もともと大熊は地域っていうか近所の関係性が濃い町だったと感じている。でもそれが、震災による全町避難で引き裂かれてしまった。震災から8年あまりが経ってやっと一部で避難指示が解除され、今も避難指示解除は進んでいるけど、震災当時の町民1万505人のうち帰ってきたのは170人ほど(私のような移住者も含めると住人はもっと多い)。元々の地域コミュニティは戻ってないし、おそらく戻ってこない。新しくつくるしかない。でも、行政区は震災前のまま再編していないから、新しいコミュニティの形も「有志」を基本としている。これが、勝手ながら私には心地いい。

私は震災前の大熊よりずっと小さな町で、地縁に育まれてきた。忘れもしない中3の卒業を前にした春。道を歩いていて知らないおばちゃんに「高校受かったってね、おめでとう」と祝福された戸惑い(というか気持ち悪さ)。今だって、帰省したら「△の孫」「〇の娘です~」で話が通る。個と家がセットのこの感じ。たまに帰省する今なら楽しめるけど、住んでたらめんどくさいと思う。親を見ていても、そこにいるというだけで役が回ってくるんだもん。向いてるとか向いてないとか好きとか嫌いとか関係なく。

で、大熊はその土地つながりの縁が一度切れてる、というか、この地じゃないとこで大熊の地縁は生きてる。そして地元大熊では地縁が薄れ、気が合うとか趣味が同じとか、関心でつながった人との関係性ができている、ように思う。私個人の感覚かもしれないけど。

野菜を知人の畑から勝手に取ってきちゃう気安さはある、幸せ。

田舎の良さを味わいながら、田舎の人間関係の濃さに振り回されない。前述の忘年会なんてどっちも、呼んでもらってただうれしい会だった。私にとって、大熊は田舎と都会のよいとこどりができる場所である。

そこに、ご近所さんの出現である。「寒いからちょっと中に」と玄関内に入ってきたので、しばらくおしゃべりをした。うちの大家と震災前は親戚のような関係性だったと、大家から聞いていたことを聞いた。「大家ならきっと居間に招くのだろう…」と玄関に立ったまま、地縁のにおいに正直ちょっと戸惑っていた。
私の感じる居心地の良さは、今の大熊が町を再建する途上にあるからこその状態で、そもそも元々町にいた人からは居心地悪い状態なのかもしれず。人が少しずつ今後も増えていく中で、うちの町はどんなコミュニティの在り方に落ち着くのか、私とご近所さんの関係は道路という一線で画されるか、それとも地縁が生まれるか。「今のままでいいのにな~」と無責任に思う週末、今季初めてまともに雪が降った。

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