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双葉郡を案内するーー伝えたいことってなんだろう。

少し前、大熊町で暮らす年月が積み重なるにつれ、ここでの生活が「個人的なこと」になり、よく知らない人に「伝えたいけど言いたくない」ことが出てきたと書いた。それから間もなく、10年ほど前に東京で働いていた時にお世話になった人が、3月10、11日と遊びに来てくれることになった。
わざわざ神奈川から来てくれるのなら、この地域のことも伝えたい。久しぶりに各所に下見までしてプランを立てた。私は何を伝えたいのかな、と考えるいい機会になった。あくまで大熊町の紹介に主眼においた、個人的な主観に満ちた案内だけど、この地域を回る時の一つの参考になればうれしい。

Day1 大熊町内からスタート
午後1時過ぎ、JR大野駅で合流。避難指示が数年前に解除されたとこ、昨年6月末に解除されたばかりのとこ、まだ解除されてないとこ、中間貯蔵施設が入り混じる我が町を、土地勘のない人に実感してもらうのは難しいと思うので、役場まで車で異動し、ロビーにある町の模型で説明しようとしたら、なんと模型がなくなっていた!
ちょっと聞いたところ、模型は避難指示解除前、会津若松市に避難中に作られたもので、模型に付されていた避難区域や公共施設や線量などの情報が現状と異なるので撤去したらしい。確かに。古い情報を役場で示すのはいかがなものかというのも分かるが、町の物理的状況を俯瞰するのに便利だったのになー。諦めて、土地勘のないまま車中から町を眺めてもらうことにする。

帰還困難区域、居住制限区域、避難指示準備区域ーーもともと3つあった避難指示区域の概要を説明し、もともと居住制限区域で2019年4月に避難指示が解除された役場を出発し、周辺に新たに建てられた施設を紹介しつつ、居住人口や帰還人口などの質問に答える。
そうしているうちに、昨年6月末に避難指示が解除されたばかりの地域に入る。もともとは町の中心部。ここ数カ月で家屋解体が進んで開けたJR大野駅西口には、商店街があったこと。「この道の両側にはお店が並んでいたんですよ。1年前にはあった風景なんですけど」。質問に答えながら、物理的にも住民構成的にも、その心情的にも変化し続ける町の状況を説明する。
東に向かうと、まだ避難指示が解除されていない地域に道路が接する。バリケードが残り、どのように避難指示が解除されるのかこれから明確になっていく地域。少し進み、国道6号に出れば、そこから先は県内の除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の用地だ。どのように場所が選定されたのか、土地や建物はどうなっているのか、などしゃべる。少し方角を変えればまた、避難指示が解除された地域に戻り、その途中にも避難指示解除がされていない場所が現れる。住んでいる私としても「あれ、ここ曲がれんだっけ?」という感じ。「地理はつかめないけど、本当に混在していることはよく分かった」と友人。もしかしたら、地図などでまず示すよりも、ぐるぐると回ることで複雑さを体感してもらえたかもしれない。

Day1 震災遺構「浪江町立請戸小学校」へ
大熊町は太平洋に面した町だ。でも、沿岸部の土地はすべて中間貯蔵施設もしくは帰還困難区域で、町民が自由に浜に降りることはできない。大熊町内を回っても津波被災の跡地には行けないので、この地域にも津波が来たことを明示するために請戸小を案内することとした。
私は、請戸小の展示が好きだ。請戸小で何が起きたのかを記した絵本を基にした遺構校舎の案内は、子どもも含めた来館者に優しい説明になっていると思うし、2階にある資料や映像等による展示も、大掛かりではないが誠実さを感じる。津波被害について原発事故について、浪江がここで伝えたいことが、まっすぐに伝わってくる気がする。
友人が時系列に起きたことを記したパネルをしきりに「凝ったつくりじゃないけど、分かりやすい」と言っていたのも印象的だった。
浪江も大熊も同じく避難自治体だけど、3月11日からそれ以降に起きたことは少しずつ違う。その差異も大事だと思うから、浪江の展示を見ながら大熊との違いを伝えた。

Day1 (東日本大震災・原子力災害伝承館へ)
カッコ書きにしたのは、もともとは予定に入れてなかったから。
国の構想で県が設置したこの施設は、福島が経験し今も直面中の原子力災害について伝える施設なのだが、情報が多すぎるといつも思う。県全体で起きたあれもこれもお伝えしないといけないから仕方ないのだろうけど。
しかも最近は、展示解説員がパワーアップしていて、資料や映像を見ていると丁寧に声をかけてくれ、いろいろと解説してくれるのだが、多分に解説員の経験や感情が織り込まれている。個人的にはあれは資料/展示解説ではなくて、語り部だと思う。説明を重ねてきたことが伺える、流れるような口調はもはや話芸。
私の影響があるかもしれないが、友人も「情報が多すぎるというのはよく分かる」と苦笑。浪江の展示よりずっと凝っているのに、時系列での説明一つとっても何を読み取っていいか分からなくなる、と。「一つの説明は視野に入る範囲でまとまっていたほうがいいのかも」という言葉に「なるほど」と思う。
伝え方って難しいねえ、ということを語り合った。
あ、ただ放射線量や除染についてコーナーを作って示しているのは町立の施設にはないので、そういう意味ではいい。流れで友人に大熊町で生活する上での被ばく線量について聞かれ、自然放射線も含めて年間1.3ミリくらいだから、追加被ばく線量は1ミリに満たないと考えていると答える。数値を見た上で、私はここで普通に生活する上では心配はしていない。こういうのは、親しいほど直接に聞きにくいかもしれないからよかったな、と思う。

その後、ご飯は楢葉町へ、大熊の自宅でちょっと飲んで楽しくしゃべって人生相談して、1日目終わり。

Day2 富岡町の「とみおかアーカイブ・ミュージアム」へ
当初は「富岡町に特化した施設だしな」と、なんだかだ県の伝承館を案内するつもりだったけど、富岡で3月4日に始まった企画展が面白くて、改めて見た常設展の震災からの経過を示した投影映像が非常に分かりやすく、しかも北隣の大熊町の情報もついでに載ってたりするから、大熊の動きもこれを見ながら説明した方が早いと、案内先に組み込んだ。さらに11日から企画展の学芸員解説会も始まったもんだから、さっそく申し込む。
大熊町にはまだ、町の歴史や震災の経過などを伝える施設がない。だから、富岡町の展示を見ながら、浪江の請戸小の時と同じように、大熊でも同じだったこと、違ったことを伝えていけばいいと思ったのだ。

企画展は、2011年3月11日に設置された富岡町災害対策本部の再現展示。担当した学芸員が、歴史学の手法を駆使しながら検証した、「あの時、この場所では何が起きていたのか」を説明する。事実の提示に留まらず「ここで分かることをいかに現在の防災計画に反映できるのか」という姿勢が顕著だったことが興味深かった。
私も、過去は未来に「伝承」されるだけでなく、過去が未来の前にまず今生かされなければ意味がないのだ、と強く思う。
警察OBの友人は、当時の避難場所の設定などを質問し、「じゃあ、自分が住む神奈川では何ができるのか」を考えていた。立場も関心の違う一人ひとりの来館者に、他人事じゃなく自分事として考えるきっかけ、少なくともひっかき傷をつけること。展示の役割で可能性だと思う。

正午前、津波で壊滅し、再建された富岡駅から友人は首都圏へと帰っていった。
地域をまとめるような感想は延べず、ただ「知れば知るほど複雑だ」と言ってくれたことがありがたかった。あと、帰りの電車の中で早速、伝承館のオンライン・シンポジウムに申し込んだらしい。「関心が熱いうちに」と。彼の中でこの地域が今後も身近になったなら、ほんとにありがたい。

上記はかなり私の個人的偏りが反映されたチョイスであるし、同じ場所を回っても誰と行くかでまったく違う印象になると思う。それだけ多様な捉え方ができるこの地域だから、それでいいと思う。
あと、被災の伝承施設ばかりを回っているけれど、ここに私は元気で暮らしていて、生活の一端も見てもらい、基本的に「こいつが元気で過ごせる場所」という前提があっての施設巡りだということも注記したい。

3月11日の午後は、町の集いでお役目があったから「お邪魔になる」と午前中に帰った友人。「あ、せっかく11日に来たのに、別にここで黙とうしたいわけじゃないんだ」と思っておかしかった。きっと震災に強い関心があるわけじゃないのに、来てくれてうれしかった。

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