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大熊で不便を感じていないのはなぜ?

大熊町大川原地区に暮らして3年半あまり。町外から、避難指示が解除されて間もない、まあ、もともとの町民でもそんなに戻ってこないところに住み始めたわけなので、不便を前提に生活感を問われることが3年半たった今もある。が、最近明確に気づいたが、私は大熊での生活を不便だと思ってない。「不便さ」(もしくは「便利さ」)というキーワードで、特にこの町に伸びしろを求めてないのだ。

今、大熊町にいわゆるスーパーはない。ちょっと立派なコンビニがあって、そこも午後8時に閉まる、飲食店は4店舗。夜はそのうち2店舗のどちらかが開いていたり、開いていなかったり。隣町のコンビニも午後8時とか9時に閉まる。
私は長崎県の片田舎(しかも島)で育って、島の小さな商店は午後7時には閉まってたし、バスが1時間に1本なんて当たり前、信号機は私が高校進学のために島を出た後に初めて設置された。高校で佐世保市に出た時、朝の通勤時の車の往来にびびり、一緒にいた母に「この風景にいつか慣れるっちゃろか…」とこぼしたくらいの田舎者、しかもその島、田舎が好きだった。※写真はうちの島の本家。なにかの種が飛んで、玄関前に花が咲いた。

よくよく思い返すと、東京都中野区に住んでいても私は今と変わらない生活を送っていた。週に1度ほど日常に必要な買い物をして、平日は仕事が終わればうちに帰る。日常。

多分、私の生活の基礎はあの島にあり、それと比べたらコンビニが夜8時まで開いている大熊になんの不満があろう、である。というか、避難自治体だから不便、というくくりで語られがちだけど、大熊より不便な「普通の」地域なんてたくさんあると思うのだ。うちの島も含めて。

この町には、もっと便利さが、必要なのか、と思うと自分の生活とはどうも食い違って、よく分からなくなる。かといって、自分が何を求めているのかはよく分からないのだけど。
ビールを切らしてる日の午後7時50分、残業に見切りをつけてコンビニに走るのは、不便じゃなくて、楽しい。



…あ、町に個人の色が少ないのはやだな、と少し思ってるな。大熊らしさ、とかじゃなくて町人のどうしようもない個性がにじみでちゃう場所が、もっとあったらいいのに。ダサくても小汚くても、画一的な小綺麗さより、好きだ。



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