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大熊町大川原から、日々つれづれ

2022年10月30日(日)午後。いわきに暮らす大家がやってきて、庭の柿を取って帰っていった。伸びたつつじの枝先に振れ「少し刈り込んでやっか」と鼻歌のようにつぶやいていた。次来るときは、庭の手入れに力を入れるのだろう。柿は栄養が足りてないからエグいそうで干してみるそう。

福島県大熊町大川原地区にあるこの家には、2019年5月から住み始めた。この地区の避難指示解除から約1か月後のことだ。
大家が幼いころから、というよりもっと前の代からここで暮らしてきたT家は、2011年の原発事故に伴う避難指示でこの地を離れ、避難中にいわき市に家を持った。そして、町外からやってきた私がこの「本家」を借りることになった。
私がこの家を借りる前から、大家はこまめに避難先から大川原に通っては手入れしてきたのだと思う。8年間も人が住まずにいて、庭も家も決して荒れてはいなかったから。そして、私が住んでからもふらりとやってきて、庭の手入れをして、(私がやらない)畑に「あれば食うべ」と野菜を植え、帰っていく。本当は(特にお父さんの方は)ここにいたいんだろうな、と思うけど、それは私にはどうすることもできないので、私は私の生活をしながら、大家が丹精した庭を愛で、作ってくれた畑の野菜を食べている。

縁とは不思議なものだなと思う。

長崎県出身の私が、東日本大震災前には福島県を訪れたこともなかった私が、大熊町に住んで3年半が過ぎた。11年前、大家を含む多くの人が自分の意思とは関係なく離れざるを得なかった大熊に、私は自分の意思で住んでいる。住みながら、思うこと考えることはいろいろある。そのいろいろを、この3年半、自分のおなかの中だけで発酵させたり、消化させたりしていたけれど、その大熊の日々を記録の意味も込めて陳列してみたいなと思う。
大熊町大川原から見える、多分、今しか見えない日常をつづっていきたい。自分の中でうまく発酵させられずに腐らせる(←これが実際のところ)にはもったいない日々が、ここにはあると思うから。


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