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わたしにとって大熊は、自分を映す鏡のようなもの

2023年、元旦は大家の電話で起きた。毎年、1月1日か2日に居間の神棚を拝みに来る。午前8時過ぎ、「着きました」「あ…私寝てたんで、鍵あけて入ってもらってOKです~」「降りてくるか?」「そうっすね」。えいやと、寝巻、寝起きの顔に眼鏡だけかけて1階に降り、大家夫婦と私の3人が並んで、この家の神様に新年のあいさつ。「はやくにすみませんね」と大家は早々に帰っていった。川内村で作った(作ってもらった)しめ縄を大家はほめてくれるに違いないと思ったが、やはり、ほめてくれてうれしい。

昨年、変化が激しい今の大熊町の日常や、その中で思ったことを忘れる前に残しておこうとnoteを始めた。そして、私はいつも大熊と崎戸(長崎の実家)を比べていることに気づく。大熊を書きながら、崎戸を書いている。それは間違いなく私が大熊にいるから生まれた視点。
大熊が問うから。「ふるさとってなに?」

2011年3月、大熊町に住んでいた人たちはいきなり自宅に住めなくなり、町にも入れなくなった。「2、3日かな」と思って避難したら、それが短い人でも8年続いた。とんでもなく大変なことだ。その気持ちとか状況を、経験していない私がわかりきることはない。少しでも理解を近づける策として、私は「もし私のじいちゃんがこの人の立場にいたら」「大叔母だったら」「この荒れた家がうちだったら」と想像してきた。

この3月であれから12年が経つけれど、まだ町の半分は避難指示継続中で、多くの町民は避難先にいて、住民票を避難先に移した人もいる。でも、避難先で生きることを(ひとまず)決めながら、自分は大熊町民である、と思っている人は多いように思うし、私もそういう人たちを町民と当たり前に受け止めている。町について知りたい時、どうしたらいいか考える時、まず彼らの知見を欲する。で、時に思う。この人たちは、自分がおそらくもう住むことはない町をどうしたいのだろう。なぜこんなに通ってくるのだろう。…「ふるさと」ってなんなのだろう。
さらに思う。この人たちがこんなに大事にしているものが、私にだってあるんじゃないのか。

いろんな人が、老いも若きも、自分たちのルーツや土台として大熊を大切に思い、自分たちが大熊で生きた証をどうにか次に残そうとしている。それを見ていると、やはり自分に跳ね返ってくるのだろう。大熊にいながら、自分のルーツを思う。大熊の人が土地が、なぜか私のルーツ探しの間接的なナビゲーターになっている。

私がここでいう「ふるさと」という言葉は、人によって「家族」とか「仕事」とか「墓」とか「友達」とか、でかく言えば「生きる」って言葉に差し替え可能だと思っている。大熊の人たちは、日常の当たり前の喪失に強制的に直面し、人生でそんなにしなくていい決断を何度も迫られて12年過ごしてきた。だから、多分、自分にとって大事なこと、もしくは大事だったのに大事にできなかったことを、私より身をもって知ってるんじゃないかなあと思う。

自分が大切に思うものを今一度考えて、それを大事に生きていくきっかけを、大熊の人と土地はくれると思う。自分の心の深部を映す鏡があちらこちらに落ちている。強さも弱さも、醜さも見える。だから、ここにいることはおもしろい。

私は、大熊に来た時から町の人たちに「いつまでいるの?」と言われ続けている。大熊から得るもの得たらこいつは去る、と思われているのだと思う。受け入れ、与えることに恩着せがましさを示さない、大熊の人たちのおおらかさに私は当初から感謝している。そして、確かに私は大熊を見つめているふりをして、自分を見ていると思う。大熊を見ながら、私は崎戸を見つめ始めた。

つまり、それって誰にとっても普遍的な価値を持つ大熊の力なのではないかなあ、などと、2023年のはじまりに思っている。

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