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資料が伝える力

大熊町の南隣、富岡町のとみおかアーカイブ・ミュージアムの企画展「震災遺産を考える 2023~完全再現・災害対策本部」を見にいった。

詳細はできれば現地で見てほしいし、富岡町の学芸員さんに確認してほしいのだが、富岡町は東日本大震災後、避難地域でいち早く本格的な震災関係資料の保全に取り組んできた。その一つに、2011年3月11日に設置された町災害対策本部の空間保全がある。災害対策本部が置かれたその部屋そのものは保全できなくても、通常は資料としてみなされないようなお菓子の包み紙や炊き出しのおにぎりを包んでいたアルミホイルを丸めた、いわゆるゴミまで収集して、写真や3D測量を同時に施すことにより、当時の状況を丸ごと再現できるようにしたものだ。

先に断ると、私は学芸員でも歴史家でもない。ただ、この数年、大熊町の歩みと震災の経験をどう伝えるかは私なりに考えてきた。
この富岡町災害対策本部の再現は、富岡町と連携して保全にあたった福島県立博物館が先に実施した展示で見た際は、正直「学芸員の自己満足」という以上の印象を持てなかった。でも、今回は違った。心を掴まれた。県博でも同じように細部まで再現していたはずだ。正直、「再現に意味はなし」と結論づけていただけに、なにが違うのか、と戸惑ってしまった。

2011年3月11日午後9時ごろ、停電の中での状況を再現したという。

一つは、時の経過があると思う。震災から時間が経過し、建物の解体などが進む中で、大熊町の実感として、当時のままで残っている施設や空間はかなり少なくなった。まだ、当時の状況があちこちで残る立場で見た「再現」はきれいごとに見えた。現実はもっとリアルなんだよ、と言えた。でも、今、その環境がなくなったことを実感する中で見た「再現」にはリアリティがあった。大熊町は富岡町より復興の速度が遅い。とすると、富岡町の人たちにとっては、再現展示は私よりもう少し早い段階で心を打つ展示だったのかもしれない。

二つ目に、展示を生かす適切な説明があると思う。かつて大熊町の学芸員から「資料は語る」と言われたことがある。学芸員ではない私はこれに反発した。資料は確かに語るかもしれないが、その語りを読み取るには知識がいる。資料は、資料単独では必要な語りを成しえない、と、私は今もこの立場にいる。
富岡の今回の展示では、再現を読み解く必要な情報が、当時の町幹部の証言を受けた形でパネルにまとめられていた。その説明を読んで、資料を見れば確かに資料は語る。当時の苦労や職員の思いに想像が飛ぶ。あくまでも想像であっても「もしこの状況に自分がいたら」と考えさせる基礎情報が展示に並列して、あった。

三つめは、何よりこれが大事なのだろうと思うが、展示されている場所が富岡町だということだ。富岡町で、富岡町が当時どのような情報を得て、どのような対応をしたのかを知る。すべてこの地で起きたことなのだという体感。一つ一つの字名や施設名がリアリティを持って迫る。
説明を読みながら、避難に直結する災害情報のもたらされ方、避難の経緯がこんなにも大熊と違うのかと思った。当事者からしたら不謹慎だろうけど、資料を見つめて、何度「面白い」とつぶやいたろう。
おそらく、会津若松市にある県博の展示ではここまで「富岡町」に特化した説明はされていなかったし、されていたとしても、具体的な地名は架空の地名と差し替わっても成り立つ「遠さ」があった。学芸員がいう資料の「現地保存」の原則を実感した。富岡で、富岡の災害対策本部の資料を見ること、そこに思いを馳せることは、やはり福島といえ他の地で、他の展示の一部として見るのとは違う。

これは、震災遺構として整備されているほかの東日本大震災被災地を見ても顕著なことだった。仙台市の震災遺構「荒浜小学校」は、あの日、この小学校で起きたことを伝えることに特化していた。人の…といえば語弊があるな…私の想像力は、そんなに広く情報を拾えない。この地で何があったかを伝えてくれた時、とても強く心に残る。

私はいまも、資料は資料単体では語らず、資料の力を担保するものとして背景情報の整理と提示が欠かせないと思っている。それは、富岡の常設展でも災対本部の再現が一部なされているが、それを何度見ても私の心が動いてなかったことでもいえる。でも、背景等の情報がうまく提示された時の資料の力は、どんなに言葉を尽くしても及ばない。そして資料は現場で語られるべきだ、というのも今回、富岡で強く感じたことである。
とみおかアーカイブ・ミュージアムの展示は5月14日まで。よければぜひ、資料の力を感じていただきたい。

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