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掌編小説【コロッケ】

クリエイターフェス10/30と10/31のお題「#思い出の曲 #この街がすき

「コロッケ」

肉屋の前を通る。揚げ油の匂いが僕の食慾を刺激する。中学生の頃、帰りによく食べたコロッケは当時は三十円だった。今は百二十円の札が出ている。なんと四倍だ。あの頃と比べてなにが変ったのだろう、コロッケの値段以外に。僕はしばし足を止めて考えてしまう。

父が入院して久しぶりに訪れた故郷の街は、今も『街』と言っていいのか躊躇するほどの寂れ具合だった。しかし商店街の入り口には『この街がすき!』と大きく書かれている。僕はこの街が好きだろうか…。思い出と言えば、Kのことだけだ。肉屋は同級生Kの家だった。しかし店先にはパートらしい女性の姿しか見えない。僕にとってKは並外れた存在だったが世間的には障がい者だった。Kはほとんど口をきくこともなく、なぜか僕がいる時だけピアノを弾いた。即興で弾く音楽は一度きりのもので、楽譜を読むことも書くこともできないKに同じ曲をリクエストしても再現されることはなかった。

「Kはどうしてピアノを弾くんだ?」
僕はたずねたことがある。しかしKは困ったような顔をして首をかしげながら鍵盤の上に指を滑らせた。彼が滑った後の空間には完璧な音のシュプールが描かれる。三歳からピアノを習って本気でピアニストを目指していた僕は、Kのピアノに出会って打ちのめされた。それくらいKのピアノは圧倒的だった。僕以外の誰も気づいていなくても。

僕はKを激しく妬んだ。しかし妬む以上にKのピアノに心を奪われた。僕はKといつも一緒にいたから、先生からは面倒見のいい優等生と思われていた。夕暮れの音楽室にはいつもKと僕がいた。毎日Kの奏でるシュプールに囲まれて、僕は嘆きと歓喜に全身を締め付けられていた。しかしあんなにも苦しかったのに、僕はどうしてもKのピアノから離れられなかったのだ。その音は僕の魂をつかんで離さなかった。

「…くん、今日は誕生日だよ、ね?」
滅多に口をきかないKがそう聞いたことがある。たしかにその日は僕の誕生日だった。
Kはピアノを弾き始めた。それは初めて聴く誕生日を祝う曲だった。初めて聴くのになぜそう感じるのかわからなかった。でもそれは僕の誕生日を祝う気持ちにあふれた音楽だったのだ。僕はすべての神経をKの奏でる音に集中させた。
 「おめでと、う」
弾き終えて、うつむいてそう言うKに、僕はなにも言えなかった。あふれて止まらない涙が絶望なのか嫉妬なのか歓喜なのかわからなかった。

僕はKに出会ってからピアノを弾くのをやめた。今ではただのサラリーマンだ。僕の夢を破壊したK。しかし僕だけが知っているあの曲の数々、とりわけ僕の誕生日のために弾いてくれた曲は、今も僕の脳内で何度もリピートされている。
思い出の曲、なんて生ぬるい言葉では表現できない、僕の全て、だ。

僕はコロッケを一つ注文した。財布から百二十円出しながら僕はパートの女性に言った。
「むかしは三十円でしたよね」
「そうなんですよー、お客さん、この街に住んでいらしたんですか?」
「ええ、懐かしいです」
「私はずっと。…この街がすきなんですよ。随分寂れてしまったけど。そういえば、ここの坊ちゃんのこともご存知かしら。今は病気が進行して施設にいるけど…、仲良くしてくれた、たった一人のお友だちのことを今も話されるんですって」
パートの女性は揚げたてのコロッケを紙に包んで手渡してくれた。
「いえ…、僕は…」
「あら、すいません。私おしゃべりで」

近くの公園のベンチで僕はコロッケを食べた。当時も僕がKを送っていくと、時々Kの母親がコロッケを包んでくれたものだ。コロッケの味は記憶のまま、なにも変わっていなかった。
この街がすき、か。
僕もこの街に戻ってこようか。そして僕のたった一人の友だちに会いに行こうか…。そんなことを思いながらも、僕は自分が決してそうしないことも知っていた。脳内でリピートされるKの曲は今も僕の心を締め付け、歓喜と嘆きの涙を流させるから。

おわり (2022/10/31 作)

※noteクリエイターフェス、楽しかった~(*´ω`*)ありがとうございました。
昨日書けなかったので、昨日と今日のお題二つまとめて入れちゃいました。

#この街がすき
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