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寛容になる3つの方法

職場の人間だったり、いろんなところに現れる「空気読めない系のひと達」に悩まされることって色々あるけども、そもそもがなんで自分がそんな小さなことに傷ついたり、やだなぁと思わなくちゃならんのかということなのだ。本当は安い居酒屋でこういうことを話したい。気もしなくもない。



そもそもが、その元凶というのは、自分がちょっと嫌だなぁと思っているそのひと”ではなく”そのひとの行うことが目についたり、聞いたりしてしまうからである。
ちょっとあっち行ってて欲しいなとか、ああ、やめてもらいたいなぁと思うことを、情報として自分が仕入れてしまっているのが問題だと思うのだ。


そんな、いろんなストレスをフワッと解消させられないかという考えが実はある。


ひとつには【宇宙的に物事を見る】ということだ。

自分の住んでいるところと、普段自分が活動している区域なんてちっぽけなものだったりする。
そう。
それこそ、ちょっと隣の街なんかに行くと、普段感じているストレスの元凶なんてすぐそばにあるものでもないし、離れることができるし忘れることができてしまう。そうであるならそれこそ自分の住んでいる街の大きさや国の大きさ、世界の広さ、そして宇宙の広さを考えてみると、自分なんて小さな存在なのである。
もちろん嫌がらせしてくるあいつのことだって小さく見えてくる。

「自分がどれだけ大きい存在なのか」なんて考えるのは無駄なことだとも言える。自分が生きていたってその地域だったり、この国に、一体何の影響を及ぼしているんだろうか? 今の世界にどれほどの影響を及ぼしているんだろうか? なんて考えると、自分なんて極々小さな存在でしかないとも言えるだろう。

であるなら。どんなひとも同じことが言えるんじゃなかろうか。
みんな小さいのだ。やっていることだってもちろん小さい。自分にしてくれていることだってもちろん小さい。
自分の足の裏にホクロがあったって、それが恥ずかしくて街を歩けないなんてことはないだろう。鼻の先に大きなニキビができていたって学校にも会社にも行けるじゃない。(できてるひと、すまん)
そう。自分は小さなことに悩んでいたり、気持ちをくしゃくしゃにされているんだと思えばいい。というか、実際にそうなのだ。実はとんでもないくらいに小さなことに悩まされていたりするものだ。

僕も、母親とよくケンカをしていたが、そんなことがあるとすぐに外に言って違う空気を吸っていた。タバコとかマリファナじゃなくって、違う場所に行っていたという意味。
それ以上ケンカはしたくなくてそうしていたってことでもあるのかもしれないが、家の外に出かけると「自分の世界は家だけじゃない」と思えたような気がする。自分の居場所なんて作ろうと思えばどこにだって作れるものだと、そんな風にも思えた。


もうひとつは【いろんなひとがいるものなんだ】と思うこと。

自分と同じ顔や性格をしているひとと出会ったことがあるか?…多分ないだろう。
そうであるなら、そりゃあ変わったひとだってこの世の中にはいるものだ。と思うことだ。
自分は常識を作り出すひとではないし、自分だって常識人なのかというと…そうでもない気がする。

どっちかっていうと、自分は変なんじゃないか?とも言える。
じゃあ、ひとのことなんて言えたもんじゃない。
つまり、自分が誰かに何かをされることもあるだろうし、自分も誰かに何かをしてしまうことだってあるだろうということ。
もしかすると今この瞬間にも誰かに対して嫌な空気感を出しているかもしれない。
だけどそんなこと考えていると変になっちゃうからやめておいて。
ひとを見て変なひとや変わったひとだと感じることは普通なことなんだよと、自分に言い聞かせる。おそらく相手のひとも同じように感じているよとも自分に言い聞かせる。それだけでいくらか救われた気持ちになることもある。


自分が警察官だったとしても、重大な罪を犯してしまったら裁判官に裁かれてしまうことだってあるだろう。警察官だったとしても完全に正義かと言ったらそうでもない。
お金を持っていたからとしても、知識を多く持っていたとしても、誰よりも年齢を重ねていたとしてもそう。数々のブランド品を持っていたとしても、高級な腕時計を持っていたりスポーツカーに乗っていたとしても、月何十万の部屋に住んでいたとしてもだ。
誰も完璧ではないし、完全なる正義を持っている人間などいない。
自分は誰かに裁きを与えられる存在なのではないということだ。

そんな、“いろんなひとがいる”惑星に住んでいるのだから。


さらにひとつ【自分のことなんざ良くも悪くも、誰も何とも思っちゃいない】と思うこと。

そりゃあ愛されていれば、自分が傷ついたら悲しむひとがいるのは当然のことではあるのだが、それ以外のことは自分で対処しない限りは自分しか頼れるところがない。自分の職場で失敗してしまったら、自分で何とかしなくちゃいけなくて「家に持って帰ってお父さんとかお母さんに何とかしてもらおう」なんてことはできないわけだ。そう、オトナになってしまったら、もうこどもじゃないのは誰だって知っている話なのだ。

友人に話をして聞いてくれたその場では「大変だったね」と言ってくれるかもしれないが、だからって夜眠れなくなるくらいに自分のことについて悩んでくれるかというと、実はそうでもない。悩んでくれたところで解決するわけでもなかろうし。
ふとその友人が思い出して、「あれからどうだった?」なんて聞いてくれることだってあるかもしれないが、たぶん1ヶ月か2ヶ月くらい経った頃に連絡してきてくれるだろう。
もしかすると解決してるかもしれない頃に連絡なんてのは来るものだ。

自分が友人の立場だったらどうだろうか?
次の日、明後日、1週間後…マメに連絡することはあるかもしれないが、「ただ心配することしかできない」のではないだろうか?当事者でなければ、できることはそこまで多くはないのが現状なのだ。そう、だから良い意味で放っておかれるのも当然なのである。


じゃあ例えば、自分のことを話して心配だからと毎日毎日自分が帰ってくるのを玄関先で待っているとしたら…?
それはちょっと怖いな。ちょっとどころか怖い。

極端な考え方だが、何とも思われていない方が実は平和な関係が保たれているように思えるだろう。
自分だって四六時中友達の事を考えていることはない。友達なんてそんなもんだ。そんなもんだから友達でいられるのだ。

たまぁに自分のことをよく考えてくれたり、想ってくれるひとがいる。それは恋人だろうか。
だから、恋人ってのは貴重なわけだし、自分のことを好きでそうやってくれているわけで、なんらストレスじゃない。
玄関で待っててくれるよりも、「お疲れ様」とひとこと書いたお手紙と一緒に、コンビニで買ったでっかいプリンと午後の紅茶がドアノブにかかっていたりする方が断然気がきくってもんだ。



な。だから元気出そうぜ。
ストレスの元凶のことを考えたところで、芽は出ない。放っておけばいいのさ。



どこかのお店の常連になりたい、これからの僕は。

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