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自分の得意は温存せず

「自分のコンテンツがあっていいなぁ」と言われたりすることがあります。

作文をしたり料理ができたり、水泳が教えられたり、靴磨きをしたり落書きをしたり…
なんだかんだ多彩だと言われていますけど、僕自身は自分のことを多彩だと思ったことはありません。

自分もただなんとなくやってきたことだし、身につけようとしてやりだしたことではありませんからね。


じゃあ、なんで自分にはそうやって「コンテンツになっている」ような技術を持っていたりするんでしょうかね?


作文を作るって言ったって、おもしろく文字を連ねられるわけじゃないですし、感動するわけでもありません。勉強になるような言葉を書ける訳でもありません、水泳なんかもそうです。泳げるし教えられるんですが、自分が卓越した何かを持っているわけでもないのです。
お料理なんかもそうです。やれるからやっているのであって、それが抜群にうまいわけでもないのですよね。

中学生くらいからお料理はできていましたし、居酒屋のキッチンで働かせて頂いてもいましたけど、居酒屋の料理なんて作り方の定まった“決まったもの”を作るので、それをやってて料理技術がどんどん上がるなんてこともないのです。

それらはみんな

「ただなんとなく自分がやってきたこと」

なんですよね。


誰からも教えられてはいないんですよ。
仕事のマニュアルに沿って事をやっては覚えたということでもありますけど、なんとなーく自分でやってきたものや少しずつ磨いてきた技術だったり覚えたことの応用です。


そう考えるとみんなも、それぞれコンテンツはあると思います。

今まで自分は何をやってきたんでしょうか?

何に気を使ってきたんでしょうか?
何に関して神経を使って尖らせてきたんでしょうか?

もしかすると、誰にもない能力だったり、誰よりも勝った能力がなければ、コンテンツにならないと思っていませんか?

コンテンツとするには「誰よりも卓越していなくてはいけない」と誰が言ったのでしょうか?


3人くらいひとが集まった中で3番目にそれがうまかったとしても、それでいいんですよ。それでいいんだと思います。少なくとも僕はそう思っていますよ。
それを自分の中だけに留めずに、誰かに披露する気持ちがその中でいちばんであればそれでいいのです。
能力がたくさんあるのに、“出し惜しみ”している気持ちがいちばんもったいないです。

やってやろう。やってみよう。どうなるかわからないけど。
恥ずかしがったり、申し訳ないと思いつつ能力をちょっとしか出さないのがいちばんかっこ悪いのです。


誰よりもいちばんになるのは、“それを競うような出来事がある時”だけでいいのです。


いつまでもいちばんでいたって仕方のないことだと僕は思いますよ。自分の能力で誰かがちょっと楽しくなって笑顔になるなら、それは続けた方がいいコンテンツなんじゃないかと思いますよ。


「誰からも頼もしいと思われる3番手」でいたいものですね。



究極の3番目、これからの僕は。

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