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私の自己肯定感はおばあちゃんから授かっている【エッセイ】


どこにでもいるおばあちゃん


私の祖母は「すごい人だった。」
本人の初七日法要の食事を前に、祭壇の目の前に陣取った祖母の姉妹が口々にそう言った。よくよく聞けば「いい人」「素晴らしい人」「多大な功績を残した人」のすごい人、ではなく、存在や言動が悪い意味で「すごい」、強烈な人だったという。

私はそれに驚いていた。
私にとって祖母は隣家に住みながら共に食事をし、小さなころは一緒にお風呂も入った、家族だった。ありふれた、どこにでもいる、おばあちゃんだった。

法要の場の言い様で、「すごい」のはお互い様じゃなかろうかと今になって思うが、あれもある種、姉妹愛のようなものだったのかもしれない。

祖母との思い出

私は幼少期、共働きの両親を傍目に、祖母に庭でけまり歌を教えてもらい、一緒にボールをついて遊んだ。
寒くなると祖父母の家へ邪魔して、お菓子やジュースを食べた。祖父母が見たかったであろう相撲や水戸黄門から、ドラゴンボールやアラレちゃんにチャンネルを替えてもらってテレビを見た。
体を柔らかくするんだと竹を踏むのを真似し、前屈で手のひらが床につく祖母に驚いた。毎日続けると柔らかくなるんだと言われ半信半疑に続けると、自分も同じように手が床につくようになり、感動したのを覚えている。
冬には庭に山茶花が咲き、祖母が口ずさむ「さざんかの宿」を覚えて、窓に息を吹きかけて曇らせては、曇りを拭って「く~も~りがらすを~てでふーいーてー」と歌っては褒めてくれるのを待った。

思春期を迎えるころ、私は祖母に冷たくした。社会人になるころ、ふくよかだった祖母の体がみるみると痩せていくことに驚いていた。私は結婚して子供を産み、ひ孫を抱かせることはできたが、そのあと短い時間で逝ってしまった。
そんなきっと、どこにでもいるただのおばあちゃんだった。

祖母の側面

祖母が天に昇った後、母からは嫁姑問題のようなものがあったと聞いた。

テレビや漫画、エンタメでしか知らなかった世界が目の前にあったこと、それに気が付かなかったことにも驚いた。
確かに母が作る料理は祖父母を意識していたし、なんなら祖母の口から小言も聞いた気がする。だがそれも今になって思えば、である。

一方的な目線で決めつけるのは苦手で、いい面を探そうとする癖が自分にはあるが、いい印象しかない場合、悪い印象をわざわざと探そうとしない。

祖母は孫の私にとって「ウザ」くはあったが、ただ愛情あふれたおばあちゃんだった。

そのため私は鈍さを発揮して、母が惨めな思いをしていたことに気が付かなかったのだ。

なぜ、お菓子やジュースをもらえる隣家の祖母宅に、兄たちが急に来なくなったのか疑問に思ったことはある。本人に問うた気もするが、回答はあいまいだったはずだ。
当時小学生だった兄たちは薄々気が付いていたのかもしれない。祖母宅に行くとき、母が悲しい顔をすることに。食卓の空気がピリつく時があることに。

祖母の褒めテク

しかしそれはさておき、私自身は祖母に何か言われたわけではない。されたわけでもない。
むしろ今になって思い出すと、手放しに褒めてくれたのは祖母だけだったように思う。

貼りだされた作文の一節が気に入っては褒め、
箸の持ち方が上手だと言っては褒め、美しゅう持つなあ…と感嘆し
いい子だなあ、この子は…とごく当たり前のことをやっても褒め、
歌を覚えれば褒め、
徒競走で一等になれば、運動神経がいいなあ…と、褒めてほしいところも的確に褒めた。

一度や二度ではない。
一度の行動を100回は褒めた。時間を空けて忘れたころに褒められた。

ずっと、褒めてくれた。

母と祖母への反抗


さすがに何度も何度も繰り返し言われると、思春期には反応に困惑し、反発するようになる。褒めるしかせず会話をしないことに苛立ちをおぼえた。

といっても直接やめて、とも言えず、ただただ冷たい態度を取ってしまった。

一方で母に反抗的な態度をとることはあっても、腹の底から湧き出るような嫌悪感は抱かなかった。祖母にはその嫌悪感を顕著に感じていた。関わってこないでと本気で思っていた。これは祖母に対して、ズブズブに甘やかされたぬるま湯から巣立とうと精神が抗っていたのかもしれない、と推測する。

(つくづく、反抗期というのはお互いを傷つけるだけの期間だよなと思う。反抗した方も反抗しただけの精神の向上も果たせていないと思う。ハイリスクローリターン)

母は決して毒親ではないが、あまり褒めない人であり、ドライなタイプでもある。

「自分の子供が特別かわいいという感情がわからなくて、他人の子供でも同じようにかわいい」、という、母と母の友人との話声が聞こえたときは戦慄が走ったし泣いた。当時はなぜ悲しいのか分からなかったが、2回目にそれと同様の台詞を聞いた時、そりゃ当時は衝撃を受けるよなと納得した。自分の子供を見えない拳で殴っておいて笑っているからである。まあその時はいい大人になっていたので、その項に対してのみ、心に壁を建てただけだ。

私もドライなタイプではあるが自分の子供は特別にかわいい。そこは母と違ってよかったと思う。

自己肯定感はいつの間にか形成されていた

私の自己評価は低い

容姿もよくないし、スタイルも悪い、皮膚病があるし、頭も悪い。人付き合いも悪い。
面倒くさがりだし掃除も下手で、日がな一日ゴロゴロしている。

だが別にそれでもいいと思えるくらいには自己肯定感は強い。こんなだけど私は私。上手に深く考えないようにできている。

自己評価が低い点でさえも、私は私のこと冷静に見れてる、Goodjob!とさえ思えてしまう朗らかヤローである。

だが今、一度、深く考えなければならない時に来ている気がする。

自分が母に似ているなら、私は上手に子供を褒められていないのではないか。

母として叱ることも多々ある、いや毎時間ある。

朗らかヤローでもあるが、導火線短いヤローでもあるのだ。


おまけに、子供にとって褒め担当の祖母、である実母も、やはり相変わらずの褒め下手である。孫にも甘くない。

唯一、主人の母はよく褒めてくれる人だが、このコロナ禍、ここ数年はまともに会えないでいる。


子供はすでに思春期に突入し、反抗期にも入っている。

もう遅いのかもしれない。褒めるのはお互いに照れるが、祖母を見習って同じことでも何度も繰り返し褒めることにしたいと、今、改めて考えている。祖母の褒めテクをここで受け継がなくてはならないのだ。

もちろん育児書通り、褒めて、感謝を伝えてきたつもりではあるが、受け取る側が受け取っていなかったらそれはゼロなのだ。

私は?一つの感謝や感動に対して1回しかレスポンスしていない。その場で終わらせてしまっている。覚えが悪いタイプには悪手である。

もしかしたら祖母は1000回褒めてくれていたのかもしれない。私には100回しか届いていなかったのかもしれない。
もっともっと本当は、思い出せないだけで褒めていてくれたのかもしれない。

でも、たくさん褒めてくれたことは、ちゃんと届いている。

何度も繰り返し聞いた祖母の褒め言葉は、小さな私に自信を与えてくれ、誇らしくさせてくれた。無条件に自分という存在を認めてくれた。それは祖母からの贈り物でもあったのだ。

そして今も、その贈り物は心の中で温かいままなのだ。

祖母は私にとっても、「すごい」人だったのだ。



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