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最近の記事

今年は着物を

長きにわたるコロナ禍で、ずっとノーマスクでの会食を一切封印していました。2023年に企画された同窓会も、全て欠席。 家族での外食は、「個室を予約する」ことが叶えば、実行、という日々。 2024年新年早々、夫の誕生日祝いも兼ねて、着物を着て和食をいただいてきました。 亡母のタンスに眠っていた由来不明のグレー🩶の紬に、以前いち利モールの通販で購入した更紗の名古屋帯をチョイス。帯は、娘が結んでくれて、帯締めも娘が選んでくれて、地味派手なコーデが完成。この紬、二度目の着用なんですが

    • 2023年卯年🐰ありがとう

      2023年12月31日となりました。 きんとんを作って、おなますとお雑煮の野菜を刻んだので、少し休憩。 ここ2週間、ずっと風邪の引き始めのような不調が続いているので、無理はしない…。 私の干支の年、卯年が暮れて行きます。 1月〜3月は、浦和の実家建て替えのラストスパート! 1月、ポルノグラフィティ暁ツアーのラスト、武道館2days🎵 4月1日から娘が浦和の病院🏥に移動になるのに、なんとか間に合った。 4月から現在に至るまでは、練馬と浦和との二拠点生活。 水曜夜〜木曜と、土

      • 発達について

        幼少時は、両親が忙しく、母方の祖父に育てられた。 父は、いろいろ迷惑をかける人だったが、私とはそこそこ気が合った。 母からは、叱咤激励され続け、配偶者の悪口を聞かされ続けた。 10年ほど前、「父は絶対に『発達障害』だ!」と、発達障害の本を購入して読んだ。父は予想通りだったが、そこに記載されている「アスペルガー」に、自分がほぼ当てはまることにショックを受けた。 その後「女性の発達障害」の本を読んで、確信した。 母が 認知症になってからは、恨みの気持ちを封印して、本当に辛抱強く

        • 寂しい

          亡母は、いつも寂しがっていた。 「アタシはサビシイのよ!」と、ぶち切れたこともあった…。 知らんがな。 自分の機嫌は自分でとってよ、と、思っていた。 私が結婚してからは、顕著になった。 「娘をとられた」ばかりに、夫に八つ当たりされて、困った 今、ちょっと寂しい時間が増えている。 でも、「寂しい」と口に出したら亡母と同じ。 耐える。 自分の機嫌は自分でとらないと。 家族仲は良いし、友達もいっぱいいるんだけど。 人間って、結局孤独なんだな。

        今年は着物を

          別荘は必要か

          6年前に母を、2年半前に父を、亡くした。 実家は物だらけ、遺産中には「ほぼ負債だな」という購入してから一度も使っていない別荘地3ヶ所。 あの世代の人あるあるらしいが、使わないものを興味本位と見栄だけで買っといて、子どもが二人いるからどっちか使うだろう〜という、安易な考え方で放置。それなら、実家の隣地から「買いませんか?」と打診があった時、買っといて欲しかったわ…。隣の土地は借金してでも買え!って言うじゃないですか。 幸い夫が協力的なので、6月末に軽井沢、8月末に塩尻の現地

          気が楽になった

          このところ、発熱対応で、疲れちゃって疲れちゃって…。 せっかく良くなってた鬱が、悪化した。 で、いろんなこと考えて、少し落ち着いて。 私ももうすぐ60歳になるんだし。 息子は未完とはいえ、そこまであくせくしなくて良くなるんじゃない⁈ 忘れないため、書いておきます。 「65歳になったら小児科医を卒業し、内科一本にします!」 あ〜、気が楽になった。

          気が楽になった

          私〜2

          小さい頃の記憶は、写真を見たり親や親戚が語った「後付けの記憶」だ。 自力で覚えている最初の記憶は、 3歳の頃、 母方の祖父母と同居していた時の自宅で、 踏み台を使ってキッチンでお皿洗いのお手伝いをしたこと。 母に言いつけられたわけではなく、自主的にしていた。 今思い返すと、3歳の幼児がまともに洗えていたわけないじゃない⁈と思うけれど、 母が「私がいつも大変なのをわかっていて、自分からお手伝いしてくれたのね!」と、 とても喜んで、たくさん誉めてくれた…。 初孫だった私は、祖

           新婚の4年間は、夫の勤務先に近い賃貸のアパートに住んだ。家賃の高い地域で、夫婦二人最低限暮らせる広さ(狭さ?)。共働き子どもなしで、本当に忙しかったから、広い家も必要なかった。  子どもに恵まれる気配はなかなかなかったが、上の部屋に昼夜逆転のとんでもなく音を立てる夫婦が入居してきたことがきっかけとなり、今度は私の通勤が少しでも楽になる地域に引っ越そうということになった。駅の近くには良い物件がなく、駅から少し歩くけれど、割としっかりした会社が建てる新築分譲マンションはどう⁈と

          家を建てる

          家を一回建てると、三回建てたくなる、と聞く。 実際、三軒建てることの出来る人は、そういないと思うが。 私自身は、今居住している自宅(夫と共有)を、有名ハウスメーカーで。 実家の建て替えを、建築士に設計してもらって、町の工務店で。 それぞれお願いした。 自分自身のものではないが、亡父の軽井沢の別荘の建て替え。 妹宅の新築にも立ち会っている。 ハウスメーカーの家造りは、とにかくスピーディーで合理的。 要所要所で選ばせてはくれるが、造り付けの家具などを頼もうとすると、とても高額

          家族は味方?

          心休まるところのない実家で育った私は、結婚によってようやく安息の場を得たと思っていた。例え、夫が10人きょうだいの9番目で、しょっちゅう大人数で集まって気疲れしても、二人になれば安心。思った通りのことを言っていい。 時が経ち、今は一女一男の両親となったが、基本的に我が家はとても仲良し家族だ。と先日までは思っていた。「人生は戦いだ」「家族以外は信じられない、他人はみんな敵!」と日頃から公言していた私。先日、「自分で入りたいと言って入会したスポーツジムになぜ行かないのか⁈お金が

          家族は味方?

          2022年

           両親も無事見送り、落ち着いて過ごせると思ったが、結構それなりに波乱があった2022年も暮れる。職場の建て替えを成し遂げ、夫の職場の移転も完了し、区切りの年となった。 「あー、何もない日々で退屈だなあ!」と言ってみたい。荒れることのない平凡な毎日を送りたい。もしそんな日々が訪れても、決してつまらないなどと文句を言ったりはしない。しかし、それはなかなか難しいことなのだろう。平凡こそ、至難の業。  職場の建て替えは成し遂げたが、職場兼実家の建物であるので、実家の建て替えはまだ続い

          干支

          所属してしている組織で、定期的に原稿依頼がある。 「班特集」というのは、書けない人は班長に理由を述べるように、 とのことなので、班長に電話をして喋るよりは書いてしまった方が楽なので書くことにしている。 もう一つ書くようにしているのが、新春随想「干支を迎えて」というお題だ。 来年還暦を迎える卯年の私は、この原稿は三巡目である。 36歳、48歳、そして今回、ということになる。 子どもの頃、「50代の大人」なんて、もう人生終わりかけた年寄りだと思っていた。 いろんなことなーんで

          お金を貯めるコツ〜あくまで私の

          #1 外で飲み物飲まない〜特にスタバ! ペットボトル飲料も、極力買わない 夏は水筒持ち歩き #2 買い物の時、有料のレジ袋や紙袋を買わない(個人的には「脱プラスチック」なのに、なぜ紙袋も有料になったのか納得いかない、便乗値上げでしょ⁉︎) #3 ヘアサロンで髪を染めない #4 家の掃除用に、やたらと洗剤を買い揃えない(液体石鹸、重曹、クエン酸とお酢、消毒用アルコール、メラミンスポンジ、で、かなりいけます) #5 お酒を飲まない(家でも外でも) #6 腕時計はチープ

          お金を貯めるコツ〜あくまで私の

          百々子先生へ

          家族全員、特に息子が大変お世話になり、本当にありがとうございます。 もうずっと以前からお気づきだと思いますが、私は精神発達に歪みがあり、正式に診断を受けたことはありませんが、おそらくアスペルガー寄りの発達障害だと思います。両親とも発達障害で、娘への愛情はあったのだと思いますが、愛情表現が下手な人たちで、私もこんな性格になってしまいました。 私なりに、一生懸命医師の仕事をし、妻・母の役目を務めてきました。とりわけ子どもに対しては、本当に全力で努力してきたのに、息子は気胸の手術を

          百々子先生へ

          母〜10

           マスオさん状態で妻の養父母と同居をしていた父。そのまま、養母の開業していた医院を引き継ぐ、という選択肢もあったと思うし、結婚の際話題にものぼっていたと思われるのだが、別の場所で医院を開業するという道を選んだ。なぜだったのだろう?喧嘩でもしたのだろうか、と、ずっと不思議に思っていたが、その理由はずっとずっとのち、母の四十九日の法事の際に、親戚から聞くこととなる。父の実家は栃木県栃木市であり、父以外のきょうだいはほとんど栃木に住んでいた。東京の杉並なんて、そんな遠くで開業された

          母〜9

          大学病院血液内科勤務の、激務でほとんど帰って来ない夫をあてには出来ず、 母は一人で家事や医院の手伝いをしていた。実家と言っても、実の両親ではないから、そう甘えることは出来ない。 結婚の翌年、昭和38年に、第一子に恵まれた。私である。父の勤務していた大学病院はあまり近くなかったためか、医師である養母の意見があったのか、お茶の水の東京医科歯科大学病院でお産をした。小ぶりの、おとなしめな女の子だった。産後、母は高熱を出してしまい、ろくに熱の原因の検査や治療をしてくれなかった担当医に