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東大院卒と働く中卒が学業を放棄するまでの話⑨完結

〜前回までのお話〜

中二の新学期、帰国子女のBボーイに
目をつけられた私はアメリカの文化を聞く中で
最も人気があるロックバンド・GN'Rの存在を知る。
ない金をはたいて買ったそのバンドの音源を
理解できるまで来る日も来る日も聴き倒し、
ロックに傾倒。聴くだけでは飽き足らず、
自身も演奏してみたいとアコギに手を出した。
やがて、それなりに弾けるようになったころ、
楽器屋で初めて弾いたエレクトリックギターの音に魅せられ、金を貯めて貯めて、憧れのギタリストの
愛器と同じモデルである念願のレスポールを
手に入れたことで人生をバグらせていく。

・まくら

インターネットが一般家庭に普及してから30年弱。
現代には真偽もソースも明らかでない
ありとあらゆる情報が溢れている。

情報過多。
そんな時代にあって「夢中になれることが見つからない」「楽しめるものが見つからない」という若者も増えているらしく、「やりたいことの見つけ方」なる書籍が書店に平積みになっている始末である。

選択肢が多いのも困りものだ。
たとえば3つのことを提示され、
その中から1つを選べと言われれば、選べる。
しかし20個のことを提示されれば、
「どれも選ばない」ということも選択肢に
入ってしまうほど時間と労力がかかる。
「やりたいことが見つからない」
その要因はそういったことなのだと
私は解釈している。そういう時代なのだ。

私が青春時代を過ごしたのはスマホはおろか
携帯電話の黎明期、インターネットなど存在すら
誰も知らない時代だった。

今で言うところの厨二病というものなのだろうが
男子中学生が夢中になれることと言えば
スポーツか音楽くらいしかなかったのでは
なかろうか。

そして私はスポーツもしていたが
スポーツで食えるほど自分の身体能力が
優れていないことくらいは理解していた。

だが病的なほどハマった音楽には
自分の中に無限の可能性を感じてしまった。
勘違いできる能力も強みってもんだ。

そして、音楽を究めることは人格形成や
交友関係、現在のライターという職業にまで
大きな影響を及ぼすものとなった。

十代でそういうものに出会えたこと、
選択できたことは非常に幸せだったと
言わざるを得ない。

・学業から逃げるための大義

「会社が倒産した。みんな、すまん。」

父が家族全員を集めて、そう言った。
中2の秋ごろだっただろうか。
私は父が泣く姿を初めて見た。

問題となったのは、大学まで労せず進学できるが、
高額な学費がかかる私立の学校に通っていた兄と私の進路だった。
このとき兄は高校2年。兄は頭がよかった。
しかし学費の安い国立大学へ進学することは
無理とは言わないまでも厳しかったと思われる。
当然だが兄はどうにかして付属の大学へ進学を望み、私も兄には進学してほしかった。
何故なら兄はこの時点で将来の展望が
なかったからだ。そして我々が通わせて
もらっていた学校は在籍時から自身の価値を
底上げできるだけのブランド力を持っていた。

一方の私は音楽という夢を見つけ、
それを職業とするにあたり学歴も母校のブランドも
まったく意味をなさず、学業に打ち込む必要もない。

父の失業というものは幸か不幸か、
私が学業を放棄する大義名分となったのだ。

翌日、私は家族に伝えた。
「俺は高校へは進学しない。」と。

・健康優良不登校児

高校へ進学しない以上、得意でもなく
楽しくもない学業などやる必要がない。
一般的な社会人として標準的な人間を
作り上げる義務教育を私は自分の人生から
切り離すことにした。
だってミュージシャンになるんだもん。

そして手始めとして、まず学校を
一週間ほど休んだ。
その間、一応スタメンを張っていた部活動にも
参加していない。

次の週、さすがに母から学校へ行くように
促された。
が、行きたくない理由は「行く意味がない」
だけではない。
早起きと満員電車での通学が
何より苦痛だったのだ。

すでに少年にとって学校とは
給料も出ないのに眠い目をこすりながら
制服に着替え、東京郊外から都心部へ
鬱屈した魂を心に宿した大人に電車内で
押しつぶされながら、ようやくたどり着いた
ところでサービス精神のない無能な教員の
退屈な授業が待っているだけの場所だ。

自分の将来を明確に描けているのに
そんな思いをしながら不毛な時間を
過ごしている暇などない。

しかし母を悲しませるのは少々の後ろめたさが
あることは否めない。
次の週、私は昼ごろから学校へ行った。
さっそく教員に職員室へと呼び出される。

一週間、休んだ理由と当日の遅刻の理由を
問い詰められる。
私は「来る意味が見つからなかった」と
正直に話した。
教員は比較的、聡明な人物だったようで
怒ることも説教することもなく、
呆れ果てた様子で私を開放したと記憶している。

・そしてロックが響き出す

その日の放課後。
たしか部活の練習はあったはずだが、
当然、参加しなかった。
もう学業、教育に関係するもの、
すべてに自分の人生を1秒たりとも
使うつもりがない。
唯一、友人だけは別だが。

そして部活をサボった私は
下校する生徒たちに紛れて、
教科書やノートをわざわざ用務員のおっさんに
借りてきた台車に積み込み、ガラガラと押して
歩いていた。

向かう先は焼却炉である。
そんなダイオキシンを発生させる
環境破壊マシーンが当時はまだあったのだ。
しかも信じがたいことに生徒の目の届き、
使用できるような場所に設置されていた。

私は焼却炉を開くと荷台に積んだ
読み物として最低な義務教育の教科書と
すでに落書きだらけのノートを
全教科分、投げ込んでその場を去った。
これで登校する場合でも無駄に重たいカバンを
背負わずに済む。
その後、卒業までの一年と少々、登校すべき日の
半分ほどしか学校に行かなかった。
行ったとしても手ぶらで昼からフラッと
気が向いたときに顔を出す感じだ。
パチプロのような中学生である。

・できることだけを誰よりもやる

そんな私だが、ただ家に引きこもってダラダラしていたわけではなく、ギターの練習とミュージシャンのインタビューを雑誌で読むことに没頭した。
まぁ、それを引きこもりと呼ぶのだと思うが……

中3にもなると私のギターの腕はメキメキと
上達し、曲のKeyさえわかれば
ブルースを土台としたギターソロを
アドリブで弾けるまでになっていた。

さらに曲も作りはじめ、歌詞を書く必要に迫られたとき「あ、歌詞って音楽ってより文学じゃん」と気づいて村上春樹や村上龍、中上健次など、当時の私でも名前を知っている作家の作品を読み漁った。
自分が必要だと感じたり、明確な目的があれば
ちょっとは努力っぽいことをする。
そのあたり真面目であった。

そしてバンドをやりたい!となるわけだが
級友を勧誘する気は毛頭ない。
文化祭で人気バンドのコピーを演奏することに
何の意味も感じていなかったし、
バンドの一員となるならギター以外のメンバーが
すでに揃っているバンドに潜り込むのが最も
手っ取り早い。

そして楽器屋でメンバー募集の張り紙を見ては
高校生、大学生あるいは社会人のバンドに
連絡を取ってスタジオに入った。
武者修行である。
こういう場合、そのバンドに加入するしないは
別として初回はお客様扱い。
メンバーで折半するスタジオ使用料を
だいたいの場合は私だけ免除してもらうことが
多かった。
スタジオでギターを大音量で好き勝手に弾き倒す。
しかもタダで。
こうして、自分の音楽性を磨き、行動することに
労力を惜しまず、動き続けれていれば、
いつかプロになる道も見えてくると思っていた。

・無能な大人たちの反応

こんな音楽に重きを置く生活で
学校に行く日は多くても週3ほどに
なっていた私は登校のたびに教員に
呼び出された。
キリスト教の学校だったので神父を兼ねた
教員のところへ連れていかれて説教を
聞かされたことも一度や二度ではない。

教員が口を揃えて言うことは
「音楽を職業にすることなど無理だ」
「音楽がやりたいなら大学を出てからでも遅くない」
など、つまらないことばかり。

なぜ「どうやったら音楽で食えるようになるか計画書を書いて持って来い」と言わないのだろう?
実際、いくらギターが上手くてもプロになることは難しい。
ならば、目標達成の道筋を描くべきなのだ。
曲がりなりにも教育者たる者が、生徒の夢を
潰しにかかるのか意味がわからない。
まともな教員が一人でもいれば、私も
もう少し早く音楽を勉強する以外にやるべき行動があると気づいただろう。
当然、教員は私を矯正することなどできなかった。
だって俺、教員よりアタマいいから。

・そして現在に至る

やがて中学を卒業するときが来た。
学校に行っても授業を抜け出して、
楽器屋でギターを弾いてたり、
授業中は小説を読むか寝るかだったり
自由、というか野放しで過ごした学校生活だったが
卒業式の開放感は忘れられない。
その日ばかりは、もう二度と会うことがないかも
しれない級友たちと夜まで学校のあった池袋で
遊び回った。

そして15歳の春。
私はもうどこにも行く義務がなくなった。
そしてバイトして金を稼ぐことができる。
15歳の中卒を雇ってくれるところなんて
あるのか?と不安もあったが、近所のレストランで
「朝6時から8時間、週6で働けます!だから雇って」
と頼み込み、あっさりとバイトは決まった。

そこから色々とありながらも私はアイドルの
楽曲のデモ音源(作詞家の手に渡る前段階の音源)
の制作や舞台音楽への楽曲提供、自身のバンドの
ライブ活動やレコーディングを経験し、2016年には
全国流通で音源をリリースするに至った。
その間、音楽仲間から誘われたゲームシナリオを
書く仕事を並行しながら。
かつての同僚や現在の協働者はみな東大院卒や
京大、少なくとも早慶以上の学歴を持つ
人間ばかりだ。
さすがに彼らは恐ろしく優秀な上、コミュニケーション能力も高く、年齢問わず尊敬できる面を
持っている素晴らしい人々だ。

やがてシナリオライターの収入は音楽での収入を
はるかに上回り、創作意欲と努力、情熱の比重は
音楽よりもストーリーを書くことに傾いた。

そして私は音楽から足を洗うことになる。
音楽仲間からは「もったいない」と言われ、
メンバーからは未だに「続けてたら、もっと上に
行けるバンドだった」と恨み節を呟かれる。

しかし情熱がなくなった時点で私の才能は
限界を迎えたのだと思う。
何より私の音楽における夢は叶ったのだ。
それは音源を何十万枚も売ることでも、
大規模なフェスに出演することでもない。

自分にとって最高のメンバーたちと
自分にとって最高の音楽を鳴らす

これが私の夢だったのだ。
こうして私の人生の第一幕は終わった。
やりきった。
ひとつの夢を叶えてしまったあとの人生を
生きていくのは正直しんどい。

だが、どうせ生きていかねばならないのならば、
好きなことを仕事にし、愛する家族や友人たちと
楽しく笑って過ごしたいものである。

だから私は今日もシナリオを書く。
明日も明後日も。
今の幸せを支えるためには、それしかできないから。

(了)







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