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「ホロロジオン」

アゴラの15時は、いつもより混んでいた。

八角形の風の塔の前に、ソクラテスは遅れてやってきた。
彼に箸を握らせて、「これがうちのお雑煮だよ」とお椀を渡した。

器の中では黄金比の四角い餅がぷかりと浮かんでいる。
ふたりで塔の前の階段に座ると、あたたかい汁をすすった。

ソクラテスは顎ひげについてしまった餅を懸命に拭うと、
「昔は社会のことと言ったけど、囲ったのは経験だった」と言った。

僕たちは、互いに法則を探すことに夢中だったけど、
歴史が生み出した四角については少し無頓着だった。

独房の四角
虫籠の四角
学校の四角
スマートフォンの四角

僕らは四隅を門に囲まれたアゴラの中で、囚われた四角についての話を続けた。

「ひょっとして、世界は君の尻の下に敷かれた四角いカーペットの上に成り立っているんじゃないかな」とソクラテスは笑って言った。
色とりどりの糸で織られた模様は、上に下に横に斜めに、その空間が厚みを増して広がっていく次元のようだ。
実際、ソクラテスと僕だって、同じ次元でこうして呼吸をしている。

自分と世界に引いたパキッとした幸福や絶望が、
少しずつ混ざり合って画素を交換していきながら溶ける空のように、
現実は融合していくようだ、と僕が思った時だった。

日時計の影が照らす先から、葡萄を抱えたひとが、その実を頬張りながら歩いてきた。
彼女は、この生涯の男性性や女性性に関係なく、みんなの中にある女神のようだ。

ソクラテスと僕は、ぼうっとその姿を眺めていると、彼女は笑って言った。

『いつでも堂々と楽しんでいなさい。
 あなたたちは間違うことなどできないの。
 失敗?
 ただ一つの経験があっただけよ。
 
 そのうちいつか
 最悪の出来事も、
 反対側から眺めることができるわ。
 それが、あなたがあなたにしてあげられる 
 最高の思いやり。
 
 大きな葡萄を贈りたいと思ったんでしょ?
 そしたらまずは、自分が許して受けとらなくちゃ』
 
塔の前で、赤いカーペットの上に寝そべりながら、僕ら3人は葡萄を頬張った。
敷物はダマスク柄となり、美しく調和している。
 
ソクラテスは葡萄の種をぷっと空へ吐き出した。
彼女も同じように、種をぷっと宙へ吐き出した。

こうやって粒が放出された時、我々の旅は始まったんだろうなと思うと、
僕は生きてきた時空間に尊敬の念を抱く。
怒りよりもずっと、
経験を重ねて歩き続けた人間に、敬意以外の言葉が見つからない。

泣けずに泣いていた過去の空間を、
別れられずに嘆いた時間を、
いくつも呼吸をしながら脱ぎ捨てていった。

執着が解き放たれて、
存在がそのままでいいと、
思いやりを持てるようになるまで。

ひとつひとつ、
出口のないような時空間を 手放していく。

僕らはみんなうたた寝の真ん中にいて、
まるで春の空気に浮かんでいるようだった。

日時計と機械時計を兼ね備えたアゴラのホロロジオンは、
静かに15時の鐘を鳴らす。


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