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私が私のことを好きになった話–他の誰でもない”私”がどう思うのかということ–

「いつかテント泊ができるようになったとき、その瞬間を逃したくない!」

そう意気込んだ私がステラリッジ2型という山岳テントを購入したのは、初めての日本アルプスから帰ってきてからすぐのことでした。

ずっといたかった。帰りたくなかった。

次は絶対に”ここ”に泊まろう。
テントを張って、一日中”ここ”にいたい。

たぶん私は、長い時間自然の中にいることが好きなんだ。それに、自然の中にいるときの自分は、なんだか悪くないように感じる。そんなにダメな奴じゃないような気がする。
一言で言えば…そう。

自然の中にいるときの自分のことなら、ちょっと好きになれるかもしれない。

それから私はますます山の世界に入っていきました。

朝焼けを見に行ったり!


スノーハイクしたり!



ハイキング中にテント泊したり!

そんな幸せな1年を過ごしていくうちに、私自身に変化が起きました。
それは、最初は僅かな変化でしたが、その変化を感じながら過ごしていくうちにより大きなものとして、たしかなものとして私に定着していきました。

それが、今回のnoteで私がお伝えしたいことです。お伝え、なんて言えるものではないですね。単に書きたいことです。書きたいと思うので、書きます。
それでは今回もどうぞよろしくお願いします。

自分を好きになっていくということ

私が初めてキャンプに行ったときに感じたこと。その中で1番心に残ったことは、
「あれ、私って意外と”できる”やん!」ということでした。

一生懸命やっているのにうまくいかない。みんなができていることができない私。呆れられてばかりの生活を送っていた私にとって、”私って意外と捨てたもんじゃない”ということを発見できた。そんな喜びを感じました。
誰かに評価されたわけでもないし、それがキャリアや資格(当時から職場環境に悩んでいました)といったこととは関係のないところで起こったことであったとしても、自分で自分のことを認められるという静かな、でもたしかな感覚。
それがとても嬉しかったのです。

それから時を経て山を歩くようになり、もっと自分のことを好きになっていきました。
私にとっての山を歩くこと。

それは”自分が”歩いているという感覚。

誰かに連れてきてもらったわけじゃない。私が私の意思でここにいる。たとえそこが難しいセクションでなくても、自分の意思でここにいるということそれ自体が私自身を静かに肯定していました。

自分を好きになっていくとはどういうことなのか。
それによって私の何が変わっていったのか。
いくつかの項目に分けて書いていきたいと思います。

1.他人の評価を気にしなくなっていく


まず大きかったのは「他人の評価を気にしなくなっていく」ことでした。

全く気にしないというわけではないのですが、以前ほどは気にならなくなっていきました。
結婚していないことや子どもがいないこと(ほしいと思っていないこと)について責められるようなことを言われたとしても、不思議と心に波が立たないのです。
「結婚したいと思っていないので」と言える。「子どもがほしいと思っていないので」と言える。
「寂しくないの?」と余計なお世話をされても「寂しくないですね」と即答できる。

だってもう、私は私を肯定しているから。
私にはもう、これ以上ないくらいの評価が与えられているのだから。

飛行機雲。快晴!

私のような性格、あるいは行動原理の持ち主に対して嫌な顔をする人は少なくありません。
自分の意見を持っていることで、アドバイスと称して自分の意見を押し付けたい人からすれば生意気だからです。聞いてもいないのに勝手にアドバイスをしてくる人は、押し付けた自分の意見を「ありがとうございます!」とありがたく受け取ってほしいのです(私調べ)。そしてそのアドバイスに従って行動し、感謝を込めてその結果を報告してほしいのです(私調べ)。

山を歩くようになる前の私は、そういった方々からの言葉や視線に傷ついていました。言った本人は忘れてしまっているようなことでも、言われた私は忘れませんでした。

ところがです。

他人からの評価が気にならなくなってくると
なぜだかどうでもよくなってくるのです。

この人は私を知らないし、私もこの人を知らない。私の知らない人が知らない私のことをとやかく言ってくる。的外れというか、比喩的に言えば私に向き合わずに明後日の方を見ながら言っているようなもの。

これ、気にする必要ないですよね。別にこの人に何を言われたところで、それがなんだっていうんだ。

他人から見た私の評価が低くたってかまわない。どう思われていたって気にしない。私自身が私のことをしっかり評価しているのだから、それだけでもう私の心はじんわりと満たされているのです。

2.自分の身体を認められるようになる

私は昔から身体が小さく、思春期に入っても成長期らしい成長がありませんでした。今でだいたい160㎝くらいです。日本人男性の平均から考えると低い方ですよね。
今はどうなのかわかりませんが、当時の私の周りでは「男性は170㎝はないとね」みたいな価値観を持っている人が多かったように思います。男女共にそうなので、付き合っている女性と並んで歩くことに対して複雑な思いを抱えることもありました。

簡単に言うと、自分の身長にコンプレックスがあったのです。

もっと背が高ければ、運動も得意になるんじゃないか。
もっと背が高ければ、色んな服が似合うんじゃないか。
もっと背が高ければ、自信を持てるようになるんじゃないか。

もっと背が高ければ。

そんなことをいくら考えたところで私の身長は1mmも伸びません。むしろ背中が丸まってさらに小さくなっていたかもしれない。胸を張って歩く、みたいな経験がなかったように記憶しています。

ところが、山を歩くようになってそこにも変化が生まれました。

厳しい環境での登山ではまた勝手が違うのかもしれませんが、今のところ私が歩きに行っている環境で「身長が低くて困った」ことはありません。

自分のペースで歩けばいいし、そのつもりで計画を立てればいい。手足が届かないような岩場に遭遇しても、丁寧に、段階を踏んでいくように足場を探せば安全に通過することができます。身体の大きな人が1歩で進める箇所を、私が3歩かければ済む話です。

晴れた日の稜線。影がシュールだ…

あくまで私の考え方ですが、自然を壊すことなく私自身が楽しく安全に山を歩くことができればオッケー。
そう考えると私はこの身体に不満がありません。
私は私のままで、楽しく山を歩くことができています。

たぶん私はこの先、私の身体をもっと好きになっていくと思います。
人と比べてどうかという尺度ではなく、あくまで私にとってどうかというものさしで。

3.男らしさ<私らしさ=生きやすくなる

今のところ私は山の中で「男らしさ」を求められたことがありません(幸運なだけかもしれませんが)。
「男の子なんだからいっぱい食べないと!」とか「男は強くないとだめだ」
みたいなことを言われた経験がないんですね。
他のハイカーさんと立ち話をすることもありますが、たいてい”今日は暑いですね・寒いですね”といった話をちょっとするだけです。そこから「結婚していないのか」「子どもはつくらないのか」といった話に移行しないんですよね…最高です。

1.2.と関連しますが、私は一般的な基準から考えるとおそらく「男性的要素※1」に乏しいパーソナリティを持っています。かといって「女性的要素※1」が多いわけでもありません。個人的な感覚では「どっちかというと男性だろうな」くらいに感じています。
※うまい言葉が見つからないので、便宜上この言葉を使います。もっと適切な言葉を見つけることができたら更新したい。

こういう感覚を持って街で暮らすのって、楽じゃないんですよね。。。
同じ気持ちをお持ちの方、どうでしょうか。暮らしにくいな、生き辛いなと感じる機会が多くありませんか。きっと私だけではないはずと思っているのですが。

ただ、これはたぶん

「私の肉体が男性だから」享受できていることだとも思っています。

というのも、女性のソロハイカーが男性のハイカーに付き纏われて迷惑した、怖い思いをしたという話を聞くからです。逆のケースもあるだろうとは思うのですが、私は幸運にもこれまでにそういった思いをしたことはありません(街ではありましたが…)。

なんというか…本当にやめてほしいですよね。忙しい毎日を送っている中でなんとか捻出した時間を注ぎ込んで山に来ているのに、なんで無料接待してストーカーに遭わなければいけないのか。仕事でもないのに、好きでもない人と会話をしなければいけないのはどうしてですか。時間と体力気力の搾取です。

自尊心も傷つきますし、こういった時間を過ごして自分を好きになることはできません。少なくとも、私の街での経験について言えばそうでした。自分で自分のことを大事にしてあげることができなくなってしまうからでしょうか。

そういう機会が減ることは、直接的に自尊心が傷つく(もはや損なうといっていい)リスクを減らすことができます。平日に失った大事なものを回復することができます。

山を歩く以前は、この回復がとても追いつきませんでした。私は、これが自分のことを好きになれなかったひとつの原因であると考えています。

4.「私が」着たい服を着るようになる

個人的にはこれが1番予想していなかった効果だったのですが…

私は人生で初めて
「私自身が心の底から着たいと思う服を自分で選んで着て」います。

…意味がわからないという方、どうか今しばらくの時間をください。これから説明しますので…

以前の記事で書きましたが、私が自分の服装を意識したのはごく最近のことです。

こちらのnoteに私は

”部屋にひとりでいるときの格好はまぁいいとして(今はこれもどうかと思う)、人と会うときはそれなりの格好をしていないと、その会っている相手に恥ずかしい思いをさせるのではないか。「あんな格好の人と一緒にいるなんて」という目で見られることで、彼や彼女に迷惑がかかるのではないか。横にいるのがみっともない格好をしている私であるばっかりに”

と書いています。つまり、「私が何を着るのか」の基準はあくまで「他人がそんな私を見てどう思うのか」ということになります。言い換えれば評価基準は相手が持っているということですね。私はその評価をもらう側にいます。
そこから私は、同記事中の表現をそのまま使うと

”その結果、とにかく私が目指すことにしたのは、シンプルで、死ぬまでそのまま続けていけるスタイルでした”

と続き、白シャツ+アウトドアブランドのウインドシェル+濃紺ボトムというスタイルを手に入れます。そしてそのまま

”でもいいのです。私はもう、いいのです。私の友人が「綺麗な格好」だと言ってくれたのだから。その私が彼の横に並ぶことを、少なくとも「恥ずかしい」なんて思わなくなったのだから”

と結ばれています。

この記事を書いたときの私の気持ちに嘘はありません。
当時は本当にそれが嬉しかったのです。私はもう、誰かと並んで歩いてもいいんだという安堵感もありました。安堵感ですね、ホッとしたのです。

でも今は違います。

今の私は「私が着たいか否か」を基準に着る服を選んでいます。それが他人の目にどう映るかについてはほとんど考慮していません。

このパープルのトップスが特に好きなんです!

思い返せば「何を着たらいいのかわからない」と思っていたあの頃の私は、私自身のことをあまり好きではなかったように思います。
嫌いとまでは言いませんが、好きだなんてとても言えない。

「(本当は)自分のことを好きになりたいのに、好きになれるところがない」

そんな風に感じていたんですね。改めて思い返すと辛かったなぁ。他人から好きになってもらえないのも辛いですが、四六時中一緒にいる自分自身に好かれないというのも別の辛さがあります。心休まるときがない、というか。

そのあとの私は地獄の転職活動デスマーチに躍り出て、世の中が大きく変わっていく中を息が切れるまで走りました。今も走ってはいますが、時々歩いています。

仕事は成果を求められるので大変ですが、とりあえず続いています。やりたいことも少しずつですが見えてきました。ただ毎月の給料日を心待ちにして過ごすのではなく(いや、心待ちにはしているけれど!)、どんな風に働きたいとか、それによって何をしたいのか、どうなっていきたいのかということを考えられるようになりました。

私の僅かな人生経験から言っても、本当に辛いときは何もできないものです。
動くべきだと思っても動けないし、時間があっても何も進められません。

本を読むことも、映画を観ることもできない。運動はもちろんできないし、食べることやシャワーを浴びることすら億劫に感じてしまいます。私は眠ることだけはできましたが、それもできない方だっているはずです。辛いですよね。そしてそれを周りに訴えても理解されないこと、多いですよね。「本当は疲れていないんじゃないの」なんて言われたりして。無神経な人はどんなことだって言えてしまうから。

私はたまたま、ひとりで走ったり焚き火を眺めたりすることが好きだと気づくことができました。以前の記事に書きましたが、ソロキャンプに出会ったことで自分を少しずつ肯定することができるようになっていきました。

そして、先述の通り山を歩くようになり、ますます自然に触れる機会が増えていきました。暑い日は渓流沿いを歩いたり、よく晴れた日に濡れたテントを乾かしたりしていると不思議と心身が回復していくのを感じます。

涼しくなったらまた焚き火したい。

次は街にいる私のことも好きになる

自分のことを好きでいられる場所に

自然の中にいる自分のことを好きになっていくと、できるだけ自然の中にいようと考えます。言葉遊びみたいになってしまいますが自然な流れですよね。自分のことを好きでいられる場所に、できるだけ長くいたい。そこを出たら”好きな自分”ではなくなってしまうから。

去年はそう思って過ごしていました。だから天気のいい平日に営業車に乗っているとイライラしたり、落ち込んだりしました。「なんだってこんな天気のいい日に仕事なんかしなくちゃならないんだ」と。
そう思って過ごして、やっと迎えた週末が雨だったりするとさらに落ち込むんですね。「この日のために頑張ってきたのになんで晴れないんだ」と。

でも、最近の私は少し違います。

山を歩くうちにまた少しずつ考え方が変わり

「日常生活(街、仕事)と非日常生活(自然、旅)
その両方から何かを得ていきたい」

と思うようになりました。街で過ごす時間もまた私の大切な人生の一部であり、自然の中にいる間だけが”私”というわけではない。どの時間も、その一瞬一瞬が全て私の人生を構成しているんだ、と。

街にいるときも好きな私でいる

…当然ですが、これは事実でありながら理想論です。仕事中は自分を押し殺すことだってありますし、そんな出来事のあとは何を食べてもあんまり味がしません。あいかわらず天気のいい日に営業車に乗っていると「このままどこかに行ってしまいたい」と考えたりしています。

ただ、たとえば…そう、雨の土曜日。いつも通り朝の5時に目を覚まして天気予報を確認すると、どうやら今日はずっと雨のようです。弱まる時間帯もあるけれど、晴れることはなさそうだ。
身体は平日の疲れを残しています。洗濯もしなくちゃいけないから朝早く出発する山歩きはちょっとしんどそうだ。

さて、こんな日はどうするか。
雨雲に文句を言いながら二度寝するか。それもいいと思います。身体は疲れているわけですから。本当に気乗りしない日はそうやって過ごすことももちろんあります。
でも、比較的身体が軽い日はカフェに行ったりしています。本を読むこともありますし、映画を観たりもします。個室の居酒屋に行ってKindleで漫画を読むこともあります。

ちゃんと手を拭いてからいただきました。

なんなら傘を差して雨の街を散歩したりします。マスクをしているのではっきりとはわかりませんが、かすかに”雨の匂い”がして「ああ、雨の匂いだなぁ」なんて思いながら歩いています。

仕事ではないので、好きな服を着て好きな靴を履いています。晴れてきたらサングラスをかけ、日傘を差します。
暑い時期はショートパンツを履くこともありますし、寒い時期はウールのニット帽をかぶることもあります。それこそ”そのとき本当に着たい服”を着たいように着ています。
こうして言葉にしてみると、私が山の中で過ごす時間を好きだと感じる理由のひとつに”着たい服を着ることができる”ことが挙げられるかもしれませんね。だとしたらすごいところに来ちゃったな。


走りたくなったら走れる足元。

 THE NORTH FACEやpatagonia、mont-bell、山と道。sankaku.suiやALTRA、VIVOBAREFOOT。みんな大好きなブランドです。たくさんは持っていませんが、本当に必要だと思うものを数点使い続けています。

…大好きなブランドですって。まさかこの私からこんな言葉が出ようとは。。。
いや、物事はいざ起こってみないとわからないものもあるんだと実感させられます。

私が私のことを好きになった話–他の誰でもない”私”がどう思うのかということ–

今年はテントを張ろうと思っています。うまくいくかはわかりませんが、冒頭のあの場所で。きっと、その体験はまた私を変えることと思います。
山での私だけではなく、街に下りた私のことも。

他人からどう思われているのか。
私の中から生まれてくるその疑問を無視することはできません。というか、無視することがいいことだとも思っていません。問題なのは、他人から好かれようとするあまり、自分が好きではない自分でいる時間を増やしてしまうことではないでしょうか。

自分で自分のことを

「今の自分、悪くないな。けっこういい感じだな」「前の自分よりも好きだな」

そう思って過ごす時間があるということ。その時間を手放さないように努力すること。そう努めている私を私自身がちゃんと見つめて、私がどう思っているのかということに耳を傾けること。

そうやって自分のことを大切にしている人は、今の私から見ても–かつての私から見ても–とても「生きている」ようで素敵だと思うのです。

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